6:1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
6:3 そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」
6:4 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
6:8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェテを生んだ。
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神が天地を創造され、人を創造され、良しとされたが、今、この場面では、後悔されている。
何が神をそのように悲しませているのか。
人の悪が増大した、という表現があるが、冒頭部分から紐解くと、それは性の乱れではないかと思う。
性の乱れ、それは性行為への執着であり、満たされず飽き足らないという人に入った罪の最たる危険要素ではないか。
今日の世界を神が見渡されるとき、それは、後に起こる大洪水の前の状態と変わらないか、更に酷いものになっているように思える。
よって神は、本来であればこの世をもう一度滅ぼしてしまわれるほどの怒りや悲しみに満ちておられるはずだ。
性とは何かを考える。
これは特に男性に宿る、女性との性向を望む欲、と言えるかも知れない。
女性にも性欲はあるが、感覚的にどのようなものかはわからない。私が男だからだ。
先日、人の創造の箇所を読んでいる時、罪が入る前の人、つまり禁断の果実かじる前のアダムとエバには、もしかすると性欲は無かったのではないか、と思った。
なぜなら、彼らは裸でいたのに、恥ずかしがることをしなかったからだ。
しかしこれは、単に私が思ったことであって、本当のところはわからない。
もし罪が入る前の人に性欲が無かったとすれば、罪と共に人に入ったものであり、大変に厄介なものだと言える。
生々しい話となって恐縮だが、アダムとエバは、900年近かった生涯を通じて多くの子を産んだ。
性交に明け暮れた、と言えば言葉が悪いが、それに近かったのではないか。
そして、それ子らがまたそのようにし人口が増大した。
その罪の言わば一片である性(あくまで私の思いつき)で溢れかえったということだ。
神はこのことを憂いておられたのだろう。
だとすれば、今の世の中も、それに近いところがある。そのように感じるのだ。
かく言う私自身も、性に蝕まれている人そのものだ。
しかし、こうして神がどのような方であるのか、イエスによって全ての罪を取り去ってくださる現実を知る者でもある。
性は、結婚して子を授かるためにあるものであって、継続的に快楽を貪るためのものではない。
この世に溢れかえる、商業的な性、異常な性、過度な性に目を閉じ、ひたすら神を求めることが出来るよう祈るばかりだ。