11:16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。

11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
 

11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっているすべての教会への心づかいがあります。

11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。

11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

11:31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。

11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、
11:33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした

 

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会社の業績が思わしくなく、その解決方法や組織としての在り方など、業績回復に向けた方法が見つからないでいる。

 

何でもかんでも挑戦すればよい、というような風潮が無くもないが、一社員としてならまだしも、企業としてそういう姿勢でいることはどうかと思う。

 

そんな中で、とある事業成功者の話を聞いた。

彼は大きな成功をおさめたが、それがどのようにしてなされたのかという点で、ただ神のめぐみと、それに与ることが出来た喜びを語っている。

 

めぐみは、仕事や努力によって受ける報酬ではなく、受ける権利もないのに与えられる何かのことだ。

そもそも、クリスチャンである私は、人生や自分の存在そのものがめぐみによってあるわけで、生きていくための膨大な事柄においても、やはりめぐみで生かされているのだ。

 

ところが、仕事のこととなると、どこか理性めいた考えによって、徹底的に報酬的考えになってしまう。

 

私は祈ろうと思った。祈った。

そして、これからもずっとそうしようと思う。

何故なら、神は求めるものに対して、必要はもとより、最低ラインとして最善のものを与えてくださるお方であるからだ。

 

クリスチャンになってからの自分の人生、わずか10年程度を振り返ってみても、また金にまつわることだけを取ってみても、私はめぐみに与っている。

神はおられるし、応え続けてくださっている。

 

だから、信じることにした。

一旦、自分の考えや勉強したことや、情報、人脈全てを置く。

その上で祈り、道をたずね、どのような行動すれば良いのかを天に仰ぐ。

神は応えてくださるから。

 

さて、今日のみことばもそのような中での神のみちびきをひしひしと感じる。

 

パウロは、言わば「ぶっちゃけの本心を言うとだなあ・・・」というような前置きをして、誇ると言うのだ。

 

しかし、その後に述べられているのは、決して好業績を残した話でもなく、自分がいかに弱いのか、カッコ悪いのか、スマートではないのかを誇っている。

 

極めつけは、ダマスコでの話。つまり、パウロが宣教者としての一歩を記した時の話だ。

王勢に追いかけられる中で、彼は窓からカゴに入って逃げ出したのだと言う。

イエスから授かった奇跡の力で敵をなぎ倒して堂々と街を出たとは言っていない。

 

私は仕事の場面で何を誇っているか。

自分が如何に情報を多くもっていて、最新の技術や手法について知っていることを自慢げに話しているのではないか。

持っている資格をひけらかして、自分がいなければ業が進まないことを誇っているのではないか。

自分の能力がいかに特別なものかを主張し、議論をねじ伏せているのではないか。

リーダーシップという言葉の下、ただ大きな声と暴論を浴びせているのではないか。

 

仕事も企業は、信仰とは別建てではない。

めぐみによって据えられた神様の道を受け取り、信仰によって進むところに神の義とされるのではないか。

 

私はもう、自分の強さを誇ることのないようにしよう。

それが、最も強くいることが出来る道なのだと、神は今日告げておられるようだ。

 

私には、これまでこの企業を良くするために何か素晴らしいことなど出来なかったのだ。

それでも、この企業には私の席があり、存在を認めてくれているのだ。

その感謝と、無力がゆえの誇りを主張し、さらけ出し、出直していこうと思う。