1コリント11
27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。
32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。
33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。
- - - - - - - - - -
教会でなされる主の晩餐、聖餐式についてのことをパウロは指摘し続けている。
自分自身をわきまえて与るように言っている。
わきまえる、とは、何か。
神の前で自分をわきまえる、というのは、自らが罪人であって、本来は得ることが出来ない特権に与っているということを、しっかりと想い出しなさい、ということだろう。
そのことは、かなり重要であるからパウロは声を大にしている。
病気や弱さの原因、また、死の原因として、わきまえない態度で聖餐に与ることをあげている。
私は、神に喜ばれる態度でいるだろうか。
神が喜ばれる態度とは、この聖餐の態度に凝縮されているのではないか。
人に対いて、自分よりも先に食べ物を分け与えるというその態度。
そもそも与えられるのに値しない私が与えられたのは、私が何か偉かったわけではなく、神が愛であるから、に他ならない。
自分をわきまえれば、神が喜ばれることをすることは必然である。
今日のみことばからの適用は、自分が与えられたことをわきまえ、人に与えること。