コリント2
10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。

11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。

13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。

16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

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分裂の危機にあるコリント教会、派閥が出来てしまっていたようだ。

もともと戒律に生きたユダヤ教の習慣を脱し、救いがキリストからのみ来ることを自分の身につけることに難しさがあったのかと想像した。

 

今日のみことばの最後にあるパウロの言葉が心に刺さる。

 

ことばの知恵によって、つまり、知的理解やこの世界の理論で福音宣教をすることが私の役割、ではないよということだ。

それだけなら、キリストの十字架は空しくなってしまう、という。

理論だけなら、キリストの十字架が空しい。つまり嘘のように思える。全くその通りかと気づかされ、納得する。

 

福音は、理論が存在する。

「なぜ・・・なのか」という疑問に対しての答えが存在している。

 

しかし、それがわかっているからと言ってどうだろう。

福音を伝える者としての自分を、何か偉大な者にでもしたいのか。

 

聖書、特にイエス様が十字架にかかった後に書かれた新約聖書には、具体的な行い、を重視している。

理論がわかっている者ではなく、行いによって証出来ることが大事だよ、と教えられる。

 

私は理論がわかっているだけの者ではない。

自分が生きるのに、神様のめぐみによって歩みが変えられて、思考も変えられて、豊かさまで与えられている。ただ。神からのめぐみとしか言いようのないもので、今日も楽しませていただいているという今まさに起こっている現実。

やがては、この世を去っても、罪のすべてを無かったこととして天に招いてくださる、という未来の現実。

神様を体感し、期待し信頼している者ではないか。

そもそも、なぜ私の罪を忘れてくださるというのか。

私が偉大な何かをしている者であるからか。

そうではないことを、自分自身が一番わかっている。

 

全ては「神が愛」であるからという神様側の理由であり、愛は理論ではない。

つまり、それに似ていくことが、キリストが私を生かして使ってくださる理由でもあるということなのだ、と今日は解した。

私は愛ではない。

神に愛されて、受ける権利の無いメリットを頂いている喜びに満たされ、誰かをゆるしたり愛したり出来るようにしてもらうように。今日、そのように生きよう。