先日、機会あって伝道した方が亡くなられた。

ご病気をされていて、余命いくばくも無いという状況での伝道。

奥様から頼まれた。

 

私の信仰の足りなさと、人間的な”出来”の悪さ、それらゆえに、スムーズに伝えることが出来なかった。

あの方は、伝道の途中で憤られた。

「お先が短い人間相手に、よくそんなことを言うなあ。イライラしてしまうよ。」と。

私が「ご主人も、神様の前にあっては罪人です。」と言ったことに、反応された格好だった。

ごもっともだと思った。

 

ただ私は、イエスが「福音を述べ伝えよ」と言われたことに従うのみだという思いが込み上げた。

体調悪く咳をしながら憤っておられるところ、大変申し訳なかったが、天が存在すること、神がそこに行く用意を済まされていること、それを自分のものにするにはただ信じること、等を可能な限り論理的に手早く伝えきった。押し売りも同然、と言われても否定出来ない。

 

話の後、雰囲気的には「早く帰れ」というような状況。

そのように無理に”話”を進める私自身を信用されなかっただろうし、そんな私の口から出る言葉だ。福音を信じるには程遠かったと言える。

最後に短くお祈りをして別れた。

 

イエスはこうも言われている。

自分のことを愛するように隣人を愛せよ、と。

私がもし、あの方と同じ病にあったとしたら、どんな言葉が優しかったのだろう。

ただ笑顔で色々な話をして、人間愛を育んで、安らかな時間を過ごすべきではなかったのか。

そのような思いにかられていた。今もずっとだ。

 

その無理矢理の伝道からの帰り際。

あの方がこの世を去る時間が迫っていることを承知していたので、ギデオン聖書の裏表紙に、どのようにすれば天国に行くことが出来るのか、という極めてご利益主義的な題名をふって、その方法を書き込んで、奥様に渡した。

死ぬ直前の恐れの中で、天を求められる可能性があると思ったからだ。単純な言葉に徹した。

 

1、自分が神の前では罪人であることを認めること。

2、その罪の赦しは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことで、代わりに償ってくださったことを認めること。

3、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたこと、3日目によみがえって天に昇られたことを、史実として認めること。

 

あえて、認める、という言葉を使った。

それが、正しかったのかどうか、今でも疑問ではある。

信じないどころか、嫌っているものを、背に腹は代えられない状況にあって、信じることが利益であると理性でわかっていたとしても、死を前にして、咄嗟に信じることなど出来ないのではないか。

そのように思ったからこそ、認める、というプロセスをもって、私が言ったこととしてではなく、情報そのものを利益として受け取ってもらえる可能性にかけた。

 

ここでの、認める、とは強制とはまた違う。

利益があるからこそ、人はある場面で心をほぐすことが出来る。

犯した罪について「ごめんさない」と言うために「本当に自分が悪いことをした」と思うことが出来ればよいが、そうでなくとも、赦される、というメリットがあれば、その方向に向き直ることが出来るはずだ。その向き直ることが、認める、に相当するのではないかと思う。

 

目に見えるものであれば、信じる、必要などない。

目に見えないもの、まだ起こっていない物事、に対する心の動きとして、信じるとか信じない、とかがある。

人の生も死も、自分の力や意図ではどうしようもないものである。

だから、その命がどう扱われるのかについて、まず認めていくことは、先に「信じる」ことにつながる。いや、そうであって欲しいと願っている。

あの方が、天に上げられていますように。