マラキ2
17 あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。
1 「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。万軍の主は言われる。」
2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。
4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。
5 「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。万軍の主は言われる
6 主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。
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神を侮ることのないように。
「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。」
クリスチャンがよく言うことだ。
確かに、罪をおかす者でさえ、神はご自分が愛であるからという理由で、愛される方ではある。
しかし、主の目にかなっている、というのは、それは勝手な都合解釈のようなものだ。
神は愛である一方で、究極の正義者、公正者である。
ほんの少しの罪も見過ごされない。
宗教活動にいくら勤しんでいても、拝みたおしても、罪は消えることがない。
「罪滅ぼし」などという人間都合は存在しない。
つまり、主の目にかなう人間は、本来いない。
イエスキリストの血によって清められるから、罪をおかして良いのか。
その思考がある時点で、信仰・信頼がどうかしていると思う。
私はそういう思考に陥る可能性をいつも秘めている。
いや、そういう思考を持つ者である。
イエス様は十字架に2度はかかられない。
罪の忍耐、罪と戦うこと、まずはその姿勢。