年内最後のライブ終わりました❗



でもまだまだ色々あって、よいお年を❗とは言えない状態


さて、どうも❗
革ジャン着てたら小さい子に「仮面ライダー❗」と言われた者です❗


昭和感❗

久しぶりの革ジャンは暖かかった❗

外はどんどん寒くなってきましたからね~

そんな今日
1702(元禄15)年12/14、元禄の頃、太平の世
戦がなくなり、日本に『戦う人』という意味での武士がいなくなってしまうかという頃に、ある事件が起こります。

赤穂浪士47人が本所(現在の東京都墨田区)の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。
後に『忠臣蔵』と言われる『本所吉良屋敷夜襲事件』❗

前年の1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家(幕府の典礼儀式を司る役職)筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという『殿中松の大廊下刃傷事件』が発端。

浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めなしって裁決に立ち上がった『義挙』の話。

この事件は読みものや舞台化され、幕末まで『武士のバイブル』として受け継がれていきます。

が❗

実は内容が『御政道批判』
いわゆる軍事国家だった江戸幕府の裁決に武力行使をもって反抗した❗というもの❗

行為は評価されてもいきさつを語ると、当時の武士教育からは矛盾が出てきます。
なのに、幕末には長州や薩摩までひそかにテキストに使用してました。

新撰組も影響を受けた方々ですね❗

また、舞台や読みものでも『政府批判』なので、当時は堂々と公開できず、鎌倉時代のお話として、塩谷判官などのキャラクターとして上演したそうです。

一説には吉良の浅野イジメや赤穂の塩を巡る一件や、賄賂を贈らなかったので突っ込まれた件など、あるにはあったにせよ、朝廷の使者を迎える式典でトラブルを起こした『軽挙』を隠そうとした様な部分も・・・

人間は『やった事で評価される』動物
記録を見ると、吉良さんはむしろ名君だった様ですね。

ちなみに堀部安兵衛が下戸だった事も『忠臣蔵』の物語では逆になってますね。

世間には討ち入りしないなんて腰抜けだ❗と後ろ指さされつつ、翌年12/14、赤穂浪士は吉良屋敷を襲撃し、本懐を遂げました。

明けて15日、胸を張って泉岳寺に向かう浪士達を見た江戸の民衆は『切腹確定』の彼らに拍手を送ったそうです。

教科書に載る事より、政道を批判し、愛する仲間(主君)の仇を取り、目標を完遂した話としての部分を評価したいです。

当時は太陰暦だったから、ほぼ満月に近い月が出ていたのかな?

さ、打ち合わせ行こう❗