東京、上野駅前に寛永寺を含む『上野の山』と呼ばれる場所があります。

徳川縁の名刹ですが、ここも実は戌辰戦争に大変縁がある場所です

幕末ツアーなんかで是非行きたい所かつ『知っていてほしい場所』でもあります

慶応四年(1868年)の今日、2月23日、浅草本願寺に、奇妙な名前の集団が会合してました
『尊王恭順有志会』

この日の4度めの会合からその名を『彰義隊』としました。

幕末ファンでなくても御存知の方、多いと思います

鳥羽伏見の敗戦で、上野に『引きこもって』しまった慶喜
その『恭順補佐』って名目で、集まったのが前述の名前の由来

ひたすら恭順の態度をとっている慶喜の名誉回復!護衛!
ってのも、ちぐはぐではありますが、幕府はそこに一橋家に仕え、慶喜の奥祐筆(秘書官)をしていた渋沢を頭取に、天野八郎が副頭取を任命。
この日めでたく『彰義隊』の誕生となりました

『とりあえず』の処置で、無政府状態の体の江戸の町の治安維持の任につけます

ところが!
慶喜を守り、朱色の文字で大きく『彰』や『義』と書かれたカッコイイ提灯を掲げて、江戸の町に横行する盗賊や無法者を捕まえ、江戸を守る彼らは一躍、江戸っ子の人気者に!

先だっての鳥羽伏見の戦いで
『次は江戸が戦火に…』
って風潮を吹き飛ばしてくれたんです。

まあ『幕府から給料が入るから』って名目で入ったヤツらもいましたが、若い旗本の次男、三男なんかも入り、最盛期には1000人の戦力を誇ったそうです。

彼らの中に鳥羽伏見で敗戦し、新撰組と袂を分かち、流れてきた『ある男』も…

しかし『恭順』を理由に新政府軍が江戸の町を『見回り』する事態があり、彰義隊は何度も衝突します。

いつしか彼らにも
『幕府が恭順しても江戸は俺達が守る!』って心意気があったんでしょうかね…

やがて5月
上野戦争に突入

彰義隊は徳川の霊廟を守る様に、上野の山に陣取り南側、現在のABAB向かいくらいからマクドナルドあたりまで門を強化し、南西の不忍池付近、現在の上野動物園南出口あたりにも門を築き、南側から来るであろう『薩摩』や『長州』に備えました

最新鋭の軍備で松坂屋付近に陣取る薩摩軍を見て、江戸を守ると息巻いていた隊士達に、ある男が呟いたそうです

『多分防げねぇ…だがな…江戸を貫かれたら、次は会津がやられる…少しでもいい!敵の数を減らすんだ!』

雨の中、薩摩からの攻撃が始まった…