今日はある『地名』が生まれた日
天保12年 5月9日
江戸の郊外、徳丸が原に大砲の轟音が響き渡った。
高島秋帆の西洋大砲である。
江戸の歴史や時代劇に明るい人なら知ってると思いますが、江戸幕府は『入り鉄砲に出女』と言って、鉄砲、大砲の江戸持ち込みを厳しく取り締まってました。
ちなみに『出女』は『人質』である大名の妻子を江戸から出さない事で、どちらも謀叛を起こさせない為の処置でした。
アヘン戦争の惨状を知った幕府は、流石に重い腰を上げ、長崎の砲術家『高島秋帆』に大砲の演習実技を命じました。
実は当時、江戸幕府としては1600年以前の大砲しか持っていなかったんです。
まあ密かに薩摩や佐賀は持ってましたが…
だから高島秋帆の様な長崎のオランダ人スチューレスに師事した『個人所持』の砲術家(コレ、長崎奉行の特権でした)に白羽の矢が立った訳ですね!
もっとも秋帆は娯楽でやってた訳ではありません。
身銭を切って『西洋の技術』を導入しようと頑張ってた方です。
彼は幕府の命令が下りると、揃いの隊服に紺股引き(ズボンみたいなもの)に銃を担ぎ、大砲を曳かせた兵隊と街道を行軍しました。
それを見た民衆は、
『戦が始まるぞ~!』
と、慌てて逃げ惑ったそうな…
そして江戸郊外とはいえ板橋(当時、板橋は江戸市中ではなかった)で轟然と大砲が火を吹いた訳です。
そのインパクトはすさまじく、以来民衆はここを徳丸が原ではなく『高島秋帆が大砲を撃った土地』という事で『高島平』と言う様になりました。
当時の日本人は『武器の進歩』の概念がなかった為、古い砲術家でも、また脚光を浴びる様になりますが『鋼鉄』を作る炉を製造したり、まだまだ課題は山積みでした。
しかしこれらも、後に『幕末三大兵器』と言われたアームストロング砲の登場で、さらに水をあけられます。
新撰組を離脱した永倉新八、原田佐之助らが合流した『彰義隊』が上野、寛永寺に篭った時、彰義隊の大砲は不忍池を越すのがやっとだったのに対し、現在の上野松坂屋前に布陣した薩摩軍のアームストロング砲は、悠々届く飛距離だったそうです。
このアームストロング砲、永倉、原田は何が何でも破壊したかったそうですね。
北に行った仲間達の為に…
それは後に、会津若松城に向けられる砲口でした。
しかし土方、斉藤らは更に北に向い、会津でその前に立ったのは『新島八重子』さんでした。
天保12年 5月9日
江戸の郊外、徳丸が原に大砲の轟音が響き渡った。
高島秋帆の西洋大砲である。
江戸の歴史や時代劇に明るい人なら知ってると思いますが、江戸幕府は『入り鉄砲に出女』と言って、鉄砲、大砲の江戸持ち込みを厳しく取り締まってました。
ちなみに『出女』は『人質』である大名の妻子を江戸から出さない事で、どちらも謀叛を起こさせない為の処置でした。
アヘン戦争の惨状を知った幕府は、流石に重い腰を上げ、長崎の砲術家『高島秋帆』に大砲の演習実技を命じました。
実は当時、江戸幕府としては1600年以前の大砲しか持っていなかったんです。
まあ密かに薩摩や佐賀は持ってましたが…
だから高島秋帆の様な長崎のオランダ人スチューレスに師事した『個人所持』の砲術家(コレ、長崎奉行の特権でした)に白羽の矢が立った訳ですね!
もっとも秋帆は娯楽でやってた訳ではありません。
身銭を切って『西洋の技術』を導入しようと頑張ってた方です。
彼は幕府の命令が下りると、揃いの隊服に紺股引き(ズボンみたいなもの)に銃を担ぎ、大砲を曳かせた兵隊と街道を行軍しました。
それを見た民衆は、
『戦が始まるぞ~!』
と、慌てて逃げ惑ったそうな…
そして江戸郊外とはいえ板橋(当時、板橋は江戸市中ではなかった)で轟然と大砲が火を吹いた訳です。
そのインパクトはすさまじく、以来民衆はここを徳丸が原ではなく『高島秋帆が大砲を撃った土地』という事で『高島平』と言う様になりました。
当時の日本人は『武器の進歩』の概念がなかった為、古い砲術家でも、また脚光を浴びる様になりますが『鋼鉄』を作る炉を製造したり、まだまだ課題は山積みでした。
しかしこれらも、後に『幕末三大兵器』と言われたアームストロング砲の登場で、さらに水をあけられます。
新撰組を離脱した永倉新八、原田佐之助らが合流した『彰義隊』が上野、寛永寺に篭った時、彰義隊の大砲は不忍池を越すのがやっとだったのに対し、現在の上野松坂屋前に布陣した薩摩軍のアームストロング砲は、悠々届く飛距離だったそうです。
このアームストロング砲、永倉、原田は何が何でも破壊したかったそうですね。
北に行った仲間達の為に…
それは後に、会津若松城に向けられる砲口でした。
しかし土方、斉藤らは更に北に向い、会津でその前に立ったのは『新島八重子』さんでした。