戦国忍者列伝
伊達の『黒脛巾組』

伊達政宗が創設したと言われる忍者集団で、黒革の脛当てをしていた事からそう呼ばれた。
『伊達秘鑑』によると、政宗は自分直属の忍集団として安部対馬重定に命じ、腕に覚えのある屈強な百姓の若者50人を選び、黒脛巾組とし、柳原戸兵衛・世瀬蔵人の2名を頭領にした。とあります。

蔵人は以前、舞台『伊達政宗』で演じさせて頂きました♪

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この時の『頭』はなんと喜多様♪

他にも『老人伝聞記』や『覚書』によると佐々木左近、気仙沼左近、横山隼人、逸物惣右衛門、大町宮内・太宰金七
らの名前が残ってます。

活躍した『人取橋の戦い』
佐竹、蘆名、岩城、石川、白河、二階堂の連合軍と伊達政宗が激突。
戦いは大苦戦。翌日、討ち死に覚悟で出陣した時、連合軍は散り散りに引き揚げていった。

これは敵軍に潜入していた黒脛巾組が『蘆名は伊達に寝返った』とか『佐竹はドサクサに紛れてこちらを討つつもりだ!』などと嘘の情報を流し、撹乱した為というのが一『定説』。
元々親戚関係の奥州勢は、イジメられないように、やむなく多数派(連合軍)に加わっていたような方々。
団結力が乏しく、しかも一度勝って『戦の後』を考え出した。

この手の集団は、疑心暗鬼になりやすくい。
その心理を見事に突いた政宗の『忍び使い』は見事な所ですね。

他にも蘆名との決戦『摺上原』では黒脛巾組が蘆名の背後に回り込み、退路の橋を落として蘆名軍を水嵩の増した日橋川の激流に落とし入れた活躍もあります。

これは小姓『木村宇右衛門』の覚書にあり、百姓出身故に『工兵』は得意だった様ですね。

黒脛巾組は後に甲冑組み打ちで有名な柳生心眼流など、伊達家の『御留流』武術を継承していく武術集団となっていきます。

今も同流には末裔の方がいますね♪

余談ですが、江戸の柳生心眼流の江戸時代末期から明治にかけての伝承者である新渡戸十次郎は『武士道』の著者で、旧五千円札紙幣の肖像の人物として著名な新渡戸稲造のお父さんである。
※かと言って新渡戸稲造が黒脛巾組な訳ではありません…多分…

黒脛巾組は実は、戦国時代の史料ではあまり確認できず、江戸初期になってから伊達家関係資料に『公開』された忍者である。

これは伊達家が機密を守り、かつ黒脛巾組の『優秀さ』を物語っている様に思えますね♪