
真田幸隆
一時大敗した戸石城(砥石城)攻めの後、調略により僅か1日で城を落とした事で有名な『攻め弾正』が真田幸隆!
智略と功績を高く評価され、外様(信濃)衆でありながら、武田家中でも一目置かれていた。
さらに譜代の家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された男、真田幸隆を父にもつのが嫡男、真田信綱と次男、昌輝
そのさらに弟がかの『Mr.表裏比興(卑怯)の者』昌幸。
だから真田幸村のおじさんにあたります。
二人は異腹(信綱の母は河原隆正の娘説、飯富虎昌の娘説があり、昌輝の母は河原隆正の妹説がある)だが、仲のいい兄弟だったらしい。
父幸隆と共に武田信玄、勝頼の2代に仕える。
信綱の幼名は源太。昌輝の幼名を徳次郎。
真田家の結束は固く、二人はよく父・幸隆と行動を共にしていた。
永禄11年(1568年)の駿河国攻めには兄弟で先鋒をつとめる
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、真田兄弟は、揃って信州先方衆の副将格として活躍する。
信綱は信玄の側によく控えており、家中の信頼も厚い人物と言われる。
しかし、一度戦になれば刃渡り三尺三寸(約1m)の刀『青江貞次』を振るう勇将で、野戦や攻城戦では真田の名に恥じぬ、抜群の手腕を見せた。
一方昌輝は最初は小姓として信玄に仕え、後に有力武将の子弟が任じられる信玄直属のエリート集団『百足衆』に任命される。
兄同様、信玄に付き従い『真田兵部(昌輝)は我が両眼なり』と言われた。
天正2年(1574年)に父、幸隆が没すると、信綱が真田家の家督を継ぐ。
しかし翌年
天正3年(1575年)『長篠の戦い』
5月21日の設楽原決戦にて敵陣に突撃。兜首を挙げるなど奮闘するが、奮闘虚しく討死。
信綱は享年39、昌輝は33歳だった。
真田家の家紋は幸隆までは雁紋だったが、幸隆が、三途の川を渡るための船賃といわれる『六文銭』を旗印にしたという。
以後この六文銭の旗印が『家紋』として扱われる様になっていったと言われる。

『Shingen』ではいかな活躍を見せるか!