武田信玄と言えば、言わずと知れた『風林火山』
戦国最強と謳われた武田軍団の総帥にして、甲斐武田家19代目惣領。
実はこの信玄の『死』から、11月の舞台『Shingen』は始まります。
信玄は野田城を落とした直後くらい、または、三方ヶ原の戦いの首実検のときから度々、喀血していたとも伝えられてます。
元亀4年(1573年)
信玄の病状悪化から、武田軍の京への進撃は突然停止。
そして4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する。
享年53歳。
信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦武)によれば持病の労咳(肺結核)、肺炎。
『甲陽軍鑑』によると胃または食道癌による病死説が有力。
しかし、江戸時代には新井白石が『藩翰譜』において、三河野田城攻城における『狙撃』が原因と記している。
近年には『日本住血吸虫病』死因説も浮上したそうです。
大体は上記がポピュラーな説
臨終の地点は、小山田信茂に宛てた『御宿堅物書状写』によると、信濃国駒場。
今の長野県下伊那郡阿智村辺りだとされます。
『甲陽軍鑑』では、信玄は遺言で『我が死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事』
勝頼に対しては『信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事』と、山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後を託したとありますが、まあ『甲陽軍鑑』は後付けが多い為、『美談』のみ抜粋します!
一応『舞台』であり『大河』ではない事がありますので。
まあ最近の大河もアレですが…
さて勝頼は律儀に遺言を守り、信玄の葬儀を行わず(すごい突かれたろうに…)、死を秘匿している。
甲府岩窪の魔縁塚を『信玄の火葬地』だと言う伝説がある。
また、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。
と言うと、死んですぐ内密に火葬した可能性もあり、そうなると『疫病説』も可能性がある。
ただ、舞台で野田城のシーンから死ぬまでず~っと引っ張るのも、アレなんで、プロローグでさくっと死んで頂きます♪
かくて信玄は死に、その死によって武田軍は瓦解していきます。
当時の情報伝達が、いかほどかはわかりませんが、信玄の死は戦に多大な影響があったでしょう。
敵側にも同様に皆、裏付けと確認に忍を走らせた事は想像に足ります。
果たして織田は誰を…
戦国シェイクスピア『風林火山・落日』
戦国最強と謳われた武田軍団の総帥にして、甲斐武田家19代目惣領。
実はこの信玄の『死』から、11月の舞台『Shingen』は始まります。
信玄は野田城を落とした直後くらい、または、三方ヶ原の戦いの首実検のときから度々、喀血していたとも伝えられてます。
元亀4年(1573年)
信玄の病状悪化から、武田軍の京への進撃は突然停止。
そして4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する。
享年53歳。
信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦武)によれば持病の労咳(肺結核)、肺炎。
『甲陽軍鑑』によると胃または食道癌による病死説が有力。
しかし、江戸時代には新井白石が『藩翰譜』において、三河野田城攻城における『狙撃』が原因と記している。
近年には『日本住血吸虫病』死因説も浮上したそうです。
大体は上記がポピュラーな説
臨終の地点は、小山田信茂に宛てた『御宿堅物書状写』によると、信濃国駒場。
今の長野県下伊那郡阿智村辺りだとされます。
『甲陽軍鑑』では、信玄は遺言で『我が死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事』
勝頼に対しては『信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事』と、山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後を託したとありますが、まあ『甲陽軍鑑』は後付けが多い為、『美談』のみ抜粋します!
一応『舞台』であり『大河』ではない事がありますので。
まあ最近の大河もアレですが…
さて勝頼は律儀に遺言を守り、信玄の葬儀を行わず(すごい突かれたろうに…)、死を秘匿している。
甲府岩窪の魔縁塚を『信玄の火葬地』だと言う伝説がある。
また、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。
と言うと、死んですぐ内密に火葬した可能性もあり、そうなると『疫病説』も可能性がある。
ただ、舞台で野田城のシーンから死ぬまでず~っと引っ張るのも、アレなんで、プロローグでさくっと死んで頂きます♪
かくて信玄は死に、その死によって武田軍は瓦解していきます。
当時の情報伝達が、いかほどかはわかりませんが、信玄の死は戦に多大な影響があったでしょう。
敵側にも同様に皆、裏付けと確認に忍を走らせた事は想像に足ります。
果たして織田は誰を…
戦国シェイクスピア『風林火山・落日』