山県昌景が可愛がった若獅子

三枝守友

天文6年生年月日不明(1537年)
~天正3年5月21日(1575年6月29日)

幼名 宗四郎

実は『昌貞』というのが正式文書にあるらしく、『守友』は諱であるらしい。

奥近習六人衆(土屋昌次・武藤喜兵衛(後の真田昌幸)・甘利昌忠・曽根昌世・三枝守友・長坂源五郎)の一人。
使い番を経て弘治3年(1557)20歳で足軽大将になる。

歴戦に名を連ね、特に山県昌景は守友を評価し、後に『若獅子のよう』と讃え、三方ヶ原ではその活躍により、名刀『吉光の太刀』を授け、後に武勇に感じ入って娘婿にしたという。
山県昌景の娘婿となった守友は一時、名を山県善右衛門と改めた事がある。

元亀元年(1570)、勝頼に従い駿州花沢の城攻めに参加。
守友は朋友、真田昌幸、曽根昌世と、繰り出し城門を攻め、出戦を仕掛けて来た敵を迎え撃ち、三枝が一番槍、真田らが二番槍をつけ、武田諸将が攻めあぐねていた城を見事落とした。
信玄も合戦の際
『俺の両眼の働きをするのは、一に三枝、二に真田、三に曽根である』
といって、敵情視察、陣取りにはこの三人を交互に組ませて先行させた。

1575年、武田軍は長篠城を包囲。守友は武田信実(信玄の異母弟)の副将として鳶ヶ巣山に布陣。
同5月21日未明、徳川の酒井忠次らの奇襲を受け、支塁の姥ヶ懐にて戦死。38歳だった。

長篠で戦死した守友の鎧を家臣が持ち帰り、娘婿の浅間神宮職・中村昌貞に預け、後に浅間神社に奉納されたという。

守友の死後7年後、武田家は滅亡するのである。

山県昌景が最も可愛がった若獅子は、槍を片手の不屈の男だった。
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