前田利家
天文7年12月25日(1539年1月15日)~慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
改名 犬千代(幼名)
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。
この犬千代、顔立ちもよく利発だったが、短気で喧嘩早く、派手な格好をした『かぶき者』
いわゆるヤンキーです。
犬千代は又左衛門と名乗り、女物の着物や毛皮といった、派手な格好を纏い、腰には赤鞘の太刀を下げ、朱塗りの大槍を担いで、往来を闊歩し、巷では又左衛門が来ると『又左衛門の槍が来たぞ』
『又左の朱槍が来たぞ!』
と声が上がったそうな。
天文21年(1552年)に信長と清洲城主・織田信友と信長の間に起こった戦に三間半(約6m30cm)の朱槍を携え、14歳で初陣で首級1つを挙げる。
弘治2年(1556年)には、信長と織田信勝の家督争いの戦『稲生の戦』では敵方、宮井勘兵衛と言う小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも宮井を討ち取る。
後に赤母衣衆となりその槍をもって『槍の又左』と恐れられた。
又左衛門は、一時、信長の勘気に触れ、柴田勝家や森可成の弁も虚しく、罷免され、浪人となる。
しかし永禄3年(1560年)、出仕停止の身の上で、信長に無断で桶狭間の戦いに参加!
朝の序盤戦で一つ、本戦で二つ、敵将の首を挙げたが、帰参は許されず、翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦!
この戦で『頸取足立』の異名を持つ足立六兵衛という豪傑を討ち取り、ようやく帰参を許された(『信長公記』より)そうです。
彼は残された着物などから推測されると、身の丈6尺(約182cm)の堂々たる体格の持ち主で顔も端整。
よって『いい男』であったと言われている。
しかし、同世代の方には彼の性格を『律義者』と評する者もいる。
信長が本能寺の変で討ち死にすると、はじめ柴田勝家に尽力、後に羽柴秀吉に臣従し、慶長3年(1598年)には豊臣政権の『五大老』の1人となり、秀吉の臨終には枕元に呼ばれ、豊臣秀頼の後を托され
『ゆく猿は 犬(犬千代)と狸(家康)に 子を托し』と謡われました。
秀吉の死の8ヶ月後に病没。
槍の又左はかぶいて候♪
天文7年12月25日(1539年1月15日)~慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
改名 犬千代(幼名)
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。
この犬千代、顔立ちもよく利発だったが、短気で喧嘩早く、派手な格好をした『かぶき者』
いわゆるヤンキーです。
犬千代は又左衛門と名乗り、女物の着物や毛皮といった、派手な格好を纏い、腰には赤鞘の太刀を下げ、朱塗りの大槍を担いで、往来を闊歩し、巷では又左衛門が来ると『又左衛門の槍が来たぞ』
『又左の朱槍が来たぞ!』
と声が上がったそうな。
天文21年(1552年)に信長と清洲城主・織田信友と信長の間に起こった戦に三間半(約6m30cm)の朱槍を携え、14歳で初陣で首級1つを挙げる。
弘治2年(1556年)には、信長と織田信勝の家督争いの戦『稲生の戦』では敵方、宮井勘兵衛と言う小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも宮井を討ち取る。
後に赤母衣衆となりその槍をもって『槍の又左』と恐れられた。
又左衛門は、一時、信長の勘気に触れ、柴田勝家や森可成の弁も虚しく、罷免され、浪人となる。
しかし永禄3年(1560年)、出仕停止の身の上で、信長に無断で桶狭間の戦いに参加!
朝の序盤戦で一つ、本戦で二つ、敵将の首を挙げたが、帰参は許されず、翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦!
この戦で『頸取足立』の異名を持つ足立六兵衛という豪傑を討ち取り、ようやく帰参を許された(『信長公記』より)そうです。
彼は残された着物などから推測されると、身の丈6尺(約182cm)の堂々たる体格の持ち主で顔も端整。
よって『いい男』であったと言われている。
しかし、同世代の方には彼の性格を『律義者』と評する者もいる。
信長が本能寺の変で討ち死にすると、はじめ柴田勝家に尽力、後に羽柴秀吉に臣従し、慶長3年(1598年)には豊臣政権の『五大老』の1人となり、秀吉の臨終には枕元に呼ばれ、豊臣秀頼の後を托され
『ゆく猿は 犬(犬千代)と狸(家康)に 子を托し』と謡われました。
秀吉の死の8ヶ月後に病没。
槍の又左はかぶいて候♪