さあやって参りました『演じるから教えて下さい』のコーナー♪
ある若い俳優達からの質問
真田信綱と昌輝
戦国時代の武将、真田幸隆の嫡男と次男。
弟に『Mr.表裏比興(卑怯)の者』昌幸がいる。
二人は異腹(信綱の母は河原隆正の娘説、飯富虎昌の娘説があり、昌輝の母は海野氏の家臣河原隆正の妹説がある)だが、仲のいい兄弟だったらしい。
父幸隆と共に甲斐国守護武田氏、武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。
信綱の幼名は源太。昌輝の幼名を徳次郎。
初陣ははっきりしませんが『甲陽軍鑑』に永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いに父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた記録が見られる。
真田家の結束は固く、二人はよく父・幸隆と行動を共にし、信濃国や上野国を転戦。
永禄11年(1568年)の駿河国攻めには兄弟で先鋒をつとめ、翌年永禄12年(1569年)、三増峠の戦いでは内藤昌豊と共に殿軍を務め、兄弟て戦功を挙げている。
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒をつとめるなど、真田兄弟は、揃って信州先方衆の副将格として活躍する。
信綱は信玄の側によく控えており、家中の信頼も厚い人物と言われる。
しかし、一度戦になれば刃渡り三尺三寸(約1m)の刀『青江貞次』を振るう勇将で、野戦や攻城戦では真田の名の通り、抜群の手腕を見せた。
一方昌輝は最初は小姓として信玄に仕え、後に有力武将の子弟が任じられる信玄直属のエリート集団『百足衆』に任命される。
兄同様、信玄に付き従い『真田兵部(昌輝)は我が両眼なり』と言われた。
天正2年(1574年)に父、幸隆が没すると、信綱が真田家の家督を継ぐ。
しかし翌年
天正3年(1575年)『長篠の戦い』
5月21日の設楽原決戦の最中。
織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃。局地戦ではあるが、兜首を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく討死。
信綱は享年39、昌輝は33歳だった。
ちなみに信綱を討ったのは渡辺政綱だといわれる。
しかし信綱の首は、家臣の白河兄弟が奪い、陣羽織りに包んで甲斐に持ち帰られたという。
これが有名な信綱の『血染めの陣羽織』。
これは、現在も上田市の信綱寺に収蔵されている。
まあデータとしてはこんな感じ♪
頑張って下さい!
ある若い俳優達からの質問
真田信綱と昌輝
戦国時代の武将、真田幸隆の嫡男と次男。
弟に『Mr.表裏比興(卑怯)の者』昌幸がいる。
二人は異腹(信綱の母は河原隆正の娘説、飯富虎昌の娘説があり、昌輝の母は海野氏の家臣河原隆正の妹説がある)だが、仲のいい兄弟だったらしい。
父幸隆と共に甲斐国守護武田氏、武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。
信綱の幼名は源太。昌輝の幼名を徳次郎。
初陣ははっきりしませんが『甲陽軍鑑』に永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いに父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていた記録が見られる。
真田家の結束は固く、二人はよく父・幸隆と行動を共にし、信濃国や上野国を転戦。
永禄11年(1568年)の駿河国攻めには兄弟で先鋒をつとめ、翌年永禄12年(1569年)、三増峠の戦いでは内藤昌豊と共に殿軍を務め、兄弟て戦功を挙げている。
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒をつとめるなど、真田兄弟は、揃って信州先方衆の副将格として活躍する。
信綱は信玄の側によく控えており、家中の信頼も厚い人物と言われる。
しかし、一度戦になれば刃渡り三尺三寸(約1m)の刀『青江貞次』を振るう勇将で、野戦や攻城戦では真田の名の通り、抜群の手腕を見せた。
一方昌輝は最初は小姓として信玄に仕え、後に有力武将の子弟が任じられる信玄直属のエリート集団『百足衆』に任命される。
兄同様、信玄に付き従い『真田兵部(昌輝)は我が両眼なり』と言われた。
天正2年(1574年)に父、幸隆が没すると、信綱が真田家の家督を継ぐ。
しかし翌年
天正3年(1575年)『長篠の戦い』
5月21日の設楽原決戦の最中。
織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃。局地戦ではあるが、兜首を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく討死。
信綱は享年39、昌輝は33歳だった。
ちなみに信綱を討ったのは渡辺政綱だといわれる。
しかし信綱の首は、家臣の白河兄弟が奪い、陣羽織りに包んで甲斐に持ち帰られたという。
これが有名な信綱の『血染めの陣羽織』。
これは、現在も上田市の信綱寺に収蔵されている。
まあデータとしてはこんな感じ♪
頑張って下さい!