実家から
『木の扇子が出てきたんだけどナニコレ?』
と電話があった。
『頑固扇』か~

『倭杖』と『頑固扇』というものがある。
明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、彼らは刀の代わりに、帯に掛けるための鉤が付いた杖のような木刀を所持するようになる。
これが倭杖(やまとつえ)
そして脇差代わりに差したのが木製の扇『頑固扇』。
最後の侍と言われた榊原謙吉の晩年のトレードマークでした。

榊原 鍵吉は幕末から明治にかけての侍、剣術家で、男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、撃剣興行の主宰や、兜割り(明治20年 1887年)などで有名な方で、死ぬまで髷を落とさなかった方です。

今日は榊原謙吉の命日でした。

免許皆伝を授けた男谷の薦めで、幕府講武所の剣術教授方となり、師範役に昇進した謙吉は、安政7年(1860年)に、時の将軍徳川家茂、大老井伊直弼ら名だたる幕閣の前で模範試合に出場。

この試合で家茂が鍵吉を気に入り、家茂の個人教授を務めるようになる。

しかし慶応2年(1866年)に家茂が死ぬと、江戸に戻るが、講武所(陸軍所)を辞して下谷車坂に道場を開く。

そして明治5年(1872年)士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場を閉めたり、警察の武術教授もなくなり、武芸者達のの職がなくなると、彼らの救済策として、明治6年(1873年)に撃剣興行(剣術でやるプロレス興行みたいなもの)を開催!
剣客達の救済活動をした。

そして明治20年(1887年)、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際の『兜割』。

出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と同、上田馬之助と榊原鍵吉。

逸見、上田は失敗。
鍵吉は深呼吸し、愛用の『同田貫』を抜き、明珍作(!)の兜を三寸五分(11.5cm)斬り割る。

明治27年(1894年)、山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲り、9月11日没。享年65だった。

彼は『神聖な剣術を見世物にするなど!』
と『剣術家ではない人』に非難されましたが、彼は『剣客が無頼の徒になるのを見るに忍びん』と、いろんな意味で『剣客を救った』んです。
それは献花に訪れた夥しい数の剣客により証明されました。

頑固扇を見て思う。

若い世代に『武芸者の矜持』みたいなのを伝えられる様になりたいと!