滝川一益(1525年~1586年)は柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀らと共に織田四天王に数えられ『進むも退くも滝川』と言われた程の戦上手の猛将ですが、織田家中でも1、2を争う『正体不明』の人物なんです。
一番ポピュラーなのは『甲賀の国人』俗説ですが、いわゆる甲賀忍者の出というもの。
よく時代小説には『滝川配下の忍者が~』なんて記述も見受けられます。
史実でも、孫の滝川一積が使えた中村氏氏は、甲賀二十一家の1家(瀧または多喜家)です。
また他の史実には志摩の九鬼嘉隆の仲介、伊勢攻略の担当、北伊勢の所領など、伊勢出身を匂わす記述もあります。
織田信長含む、多くの戦国武将は見えっ張りなので、大抵『実は誰其の子孫』なんて事をでっちあげるんですが…
信長に仕えた時期も不明で、鉄砲の腕を買われて召し抱えられた逸話がある(当時から鉄砲を用いるのは身分の低い者か忍が多かった!)のみ。
『勢州軍記』によれば、殺人を犯して住んでいた所を追い出され、尾張に流れてきた。とあります。
信長の目に止まった一益は、天正元年(1573年)の刀根坂の戦い、同2年の長島一向一揆鎮圧、同3年、長篠の戦いや加賀一向一揆攻め、同4年の天王寺合戦、同5年、雑賀攻め、同6年、木津川口の戦い(第二次)など、信長の重要な戦いにはほとんど参戦してます。
また、関東総司令になった一益は本能寺の変の際、その事実を知らなかった上野、下野関東諸将に事実を正直に打ち明け、逆に信頼を得る『義将』としての逸話(『甫庵信長記』より)があり、関東や信濃の国人にかなり人気がありました。
中でも、真田家とはかなり親しく(甲賀繋がり?)、一族には落ち延びた後、真田家に身を寄せる者も。
ちなみに一益の孫、一積は未亡人であった真田昌幸の娘を娶ってます。
この頃、一積は信繁の娘達にも縁組を持ち込んでいる。
世話焼きな面も…
賤ヶ岳では信長の葬儀の際、秀吉に『滝川殿の席はない!』と参列拒否されたせいか、柴田勢に。
ムカついたからか?
しかし、勝家が破れ、一益は厩橋城から伊勢長島に退去することになった時も、一益は上野衆の妻子を解放してから退去しています。
その去り際を見た真田昌幸(あの昌幸が?!)らが木曾まで一益を警固している逸話(しかしこの為6/27の清洲会議には一益は欠席)もあります。
信長配下には珍しい『人望のある誠実な義将』でした。
一番ポピュラーなのは『甲賀の国人』俗説ですが、いわゆる甲賀忍者の出というもの。
よく時代小説には『滝川配下の忍者が~』なんて記述も見受けられます。
史実でも、孫の滝川一積が使えた中村氏氏は、甲賀二十一家の1家(瀧または多喜家)です。
また他の史実には志摩の九鬼嘉隆の仲介、伊勢攻略の担当、北伊勢の所領など、伊勢出身を匂わす記述もあります。
織田信長含む、多くの戦国武将は見えっ張りなので、大抵『実は誰其の子孫』なんて事をでっちあげるんですが…
信長に仕えた時期も不明で、鉄砲の腕を買われて召し抱えられた逸話がある(当時から鉄砲を用いるのは身分の低い者か忍が多かった!)のみ。
『勢州軍記』によれば、殺人を犯して住んでいた所を追い出され、尾張に流れてきた。とあります。
信長の目に止まった一益は、天正元年(1573年)の刀根坂の戦い、同2年の長島一向一揆鎮圧、同3年、長篠の戦いや加賀一向一揆攻め、同4年の天王寺合戦、同5年、雑賀攻め、同6年、木津川口の戦い(第二次)など、信長の重要な戦いにはほとんど参戦してます。
また、関東総司令になった一益は本能寺の変の際、その事実を知らなかった上野、下野関東諸将に事実を正直に打ち明け、逆に信頼を得る『義将』としての逸話(『甫庵信長記』より)があり、関東や信濃の国人にかなり人気がありました。
中でも、真田家とはかなり親しく(甲賀繋がり?)、一族には落ち延びた後、真田家に身を寄せる者も。
ちなみに一益の孫、一積は未亡人であった真田昌幸の娘を娶ってます。
この頃、一積は信繁の娘達にも縁組を持ち込んでいる。
世話焼きな面も…
賤ヶ岳では信長の葬儀の際、秀吉に『滝川殿の席はない!』と参列拒否されたせいか、柴田勢に。
ムカついたからか?
しかし、勝家が破れ、一益は厩橋城から伊勢長島に退去することになった時も、一益は上野衆の妻子を解放してから退去しています。
その去り際を見た真田昌幸(あの昌幸が?!)らが木曾まで一益を警固している逸話(しかしこの為6/27の清洲会議には一益は欠席)もあります。
信長配下には珍しい『人望のある誠実な義将』でした。