終戦記念日に石田三成を
さて、質問もあった為、三成公の逸話をもう一つ。
島左近に俸禄の半分を渡した逸話は有名ですね?
若き三成の不利な点、それは『家臣』でした。
幼い頃に秀吉に見出だされ~と言うと聞こえは良いが、三成自身はそれが故に、秀吉同様譜代の家臣がほとんどいなかった。
そんなまだ無名の長浜時代、新井某という武将がいました。秀吉には2万石出す!と言われた猛将でした。
彼とその一党が欲しかった三成は、あろう事か俸禄のすべてを新井に差し出してしまう。
収入がなくなってしまった三成は、しばらくの間、なんとその新井の館に『居候』していたらしい。
その頃、堂々と『主の禄を使うのは当然である。それは優れた家臣の為に使うのがよい。(略)』
と言ったという。
なんとも三成らしいエピソードである。
これには後日談があり、三成が出世して、新井に俸禄の加増を持ち掛けたが、新井は頑として500石以上は受け取らなかったという。
それは最初に新井を召し抱えた時の三成の禄と同じ額。
『三成の精一杯』だったから。
戦下手や奸臣、佞臣と言われてる人間に、関ヶ原であれだけの人間がついてくるだろうか?
『三成は人に好かれる』
徳川はこの話を『危険』とみなし、削除につとめた。
また、関ヶ原以降、徳川政権が盤石になるまでは『敵の象徴』が必要。
誰にするか?
その後の統治に毛利をはじめとした大大名は『必要』
また豊臣恩顧であっても自分に着いた武将も『必要』だった。
できたのは『三成は悪人』…
今の様にメディアの発達も情報もない時代です。
勝利しさえすれば、情報操作など容易にできたと推測されます。
この『三成いけにえ計画』はかなり早い段階から計画されていたらしく、武断派と文治派の諍い前にも、家康の影が見える資料もある。
余談ですが、出自が低いというのも徳川に『標的』になりました。
徳川政権(江戸時代)でのスローガン『個人の能力より家柄重視』に見られる様に『下賎の出(ホントは寺に修学しにきていた土豪の息子)』というのも『悪』の要因にされたんです。
このスローガン、江戸時代の暗黒テーゼでしたが、一部では現在までも続いてますね。
最近、喜ばしい事に、新たな資料の発見、研究による『新説』が多々出て来ております。
これにより願わくば『大一大万大吉』
みんな幸せになればいいですね。
おあとが宜しいようで♪
さて、質問もあった為、三成公の逸話をもう一つ。
島左近に俸禄の半分を渡した逸話は有名ですね?
若き三成の不利な点、それは『家臣』でした。
幼い頃に秀吉に見出だされ~と言うと聞こえは良いが、三成自身はそれが故に、秀吉同様譜代の家臣がほとんどいなかった。
そんなまだ無名の長浜時代、新井某という武将がいました。秀吉には2万石出す!と言われた猛将でした。
彼とその一党が欲しかった三成は、あろう事か俸禄のすべてを新井に差し出してしまう。
収入がなくなってしまった三成は、しばらくの間、なんとその新井の館に『居候』していたらしい。
その頃、堂々と『主の禄を使うのは当然である。それは優れた家臣の為に使うのがよい。(略)』
と言ったという。
なんとも三成らしいエピソードである。
これには後日談があり、三成が出世して、新井に俸禄の加増を持ち掛けたが、新井は頑として500石以上は受け取らなかったという。
それは最初に新井を召し抱えた時の三成の禄と同じ額。
『三成の精一杯』だったから。
戦下手や奸臣、佞臣と言われてる人間に、関ヶ原であれだけの人間がついてくるだろうか?
『三成は人に好かれる』
徳川はこの話を『危険』とみなし、削除につとめた。
また、関ヶ原以降、徳川政権が盤石になるまでは『敵の象徴』が必要。
誰にするか?
その後の統治に毛利をはじめとした大大名は『必要』
また豊臣恩顧であっても自分に着いた武将も『必要』だった。
できたのは『三成は悪人』…
今の様にメディアの発達も情報もない時代です。
勝利しさえすれば、情報操作など容易にできたと推測されます。
この『三成いけにえ計画』はかなり早い段階から計画されていたらしく、武断派と文治派の諍い前にも、家康の影が見える資料もある。
余談ですが、出自が低いというのも徳川に『標的』になりました。
徳川政権(江戸時代)でのスローガン『個人の能力より家柄重視』に見られる様に『下賎の出(ホントは寺に修学しにきていた土豪の息子)』というのも『悪』の要因にされたんです。
このスローガン、江戸時代の暗黒テーゼでしたが、一部では現在までも続いてますね。
最近、喜ばしい事に、新たな資料の発見、研究による『新説』が多々出て来ております。
これにより願わくば『大一大万大吉』
みんな幸せになればいいですね。
おあとが宜しいようで♪