寒かったり暑かったりで、タイミングを失っていた紫陽花がようやくあおく。
小松雅樹の武器と歴史の工房-100527_1109~01.jpg
稽古に行く途中ではありますが、先程の通り雨で洗濯ものが心配です…。

さて、最近、知り合いのゲーム会社の女の子が『若い男性社員は25、6のクセに子供すぎる!』とぶつぶつ言ってました。
まあ男はいつまでたってもガキな所がありますから。しかし場合によっては悲劇的な少年期を送った方も…


豊臣秀頼
文禄2年8月3日(1593年8月29日)~慶長20年5月8日(1615年6月4日)

幼名を拾丸という。

天下人となった秀吉が、当時唯一手に入れられなかったものが『子供』だった。

『捨て子は育つ』という言い伝えから子供に『捨丸』と名付けた事もあったが、またも夭折。その後生まれた秀頼は『捨てられたのを拾った』という意味で『拾丸』と名付けられ、すくすくと成長。

北政所派、淀君派の子供暗殺劇説や秀吉の無精子症説がある中、またある仮説があります。

小柄でひ弱な坊ちゃんというイメージが有りがちだが、実際は身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢で蒲鉾が大好物だったらしい。

この体格から『秀吉の子ではないのでは?』と噂された事がある。

祖母お市は長身であったらしいが、いくら祖父母が長身でも、秀吉の周りの者は秀吉と見比べる訳ですし、現代医学的な見方では、劣悪な栄養環境で少年期を過ごした小柄な秀吉のDNAは弱かったのでは?その為、死産または夭折が多かった事に説明がつく。という意見もある。

二条城で秀頼と対面した時、家康は『堂々たる美丈夫振り』と評しており、家臣の『秀頼はこの年まで、牛に角があるのもしらず、蛤は木になるものと信じたる暗愚』との告げ口に『それは見たことがないだけで、知恵がない訳ではない。話をすれば、さても見事な見識を持っているのが分からぬか?』と言ったそうで、思いの外高い、大阪側の秀頼の評判を落とすため、危機感を感じた家康側がバラまいた『中傷』とも言われる。

何にしろ秀頼は幼くして、この誹謗中傷の中、ハメを外すことすら許されず、淀君を『支え』、11~2歳で結婚、旗頭に祭り上げられた訳です。

思春期の少年にはあまりにも過酷な状況の中、心のよりどころは千姫だけだったのかもしれません。