歴史上の人物を考察するに『どう行動したか』と『どんな事をされたか』をみる方法があげられます。
いくつかのエピソードを使い、先日の『小西行長』を例にとって検証してみましょう。

行長は(薬)商人の出で、はじめ宇喜多家に仕えるが、直家死後、秀吉に乗り換えるます。
これで『機を見るに敏』だった事がわかります。

また、秀吉に仕えるまでのあまり記録にない期間。これも実にリアリティがあり、エピソードで塗り固め(られ)ていない分、実直な部分に見えます。

天草5人衆の乱の時の事。
民を『同じキリシタン故』と手心を加え、加藤清正がその鎮圧に『与力』した。と史書にある。
与力が要請かどうかは置きますが、ここで考察。
まず戦をするには人と金と時間(手間)がかかります。そして武力鎮圧は領民の恨みも買います。

結果だけみます。

行長は『加藤清正を悪役にする事で、領民の恨みをそちらに向け、戦の出費も抑えられた』という事になりました。

しかも、清正に払う賠償も、ほとんど払っていません。

この辺は『したたか』で『名より実』をとる、計算高く面の皮も厚い人だったのか?

その後の朝鮮出兵の際も、過日の恨みか『薬屋ふぜい』と清正に罵られると、自軍の船に『袋に赤丸』(当時の薬袋)の紋を掲げ船印として使うなど、人を喰った所もある様です。

明との講和の時には、こっそり条約内容を変えて報告を頼んだ(失敗してます)りしてますが、それにより起きる事象は『戦の終結』でした。
秀吉には叱責されましたが、問題は講和がこじれると、次は明が相手です。(結局、講和にはなってます)

また、孤児院を建て、教会を建て、熱心にキリスト教の布教に力を注ぐ。

これによっては『自領内の民の安泰』が得られます。

さらに、いくら叱責されても『武断派』と違い西軍に組しました。
当時は『西軍が絶対勝てる布陣』だったので、勝つだけが目的だったかと思えば、家康の調略(政略結婚)を断って、あえて西軍にいるあたりに『美学』が見えます。

合戦後も世話になった人間に身柄を預け褒美を取らせたり、
『キリシタン故自害はせぬ』と、武将の最後としては屈辱的な『斬首』を自ら選ぶ。などなど

余談ですが、その後、行長の死体は郎党に引き取られ、キリスト教式に葬儀をし直されたそうです。

ここまでの行動、被行動(された事)をみるに浮かんで来る人物像は…

それは皆さんの『解釈』で!