~ 2001年設立 ~ ウィメンズネット・サポート(WNS)のブログ

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❁2001年設立のウィメンズネット・サポート(WNS)は、女性の活躍を応援する任意団体です。
❁恋愛や結婚、親子関係や自己実現のことで悩む女性たちに「自分軸」の作り方を伝授します。

 

2001年夏、母は46歳、私は24歳でした。

母と娘という関係性から、師匠(master)と弟子(apprentice)という関係性へと変わったのです。

 

「私が魚を捕る方法をあなたに教えます」

そう断言した母のことを、私は憧れと尊敬の気持ちで見るようになりました。

 

母が私の才能を見出そうとしたのは、

その時が初めてではありませんでした。

私が高校生の時、母が私の得意分野を見つけようとしていた時期があったのです。

 

ある日、ダイニングテーブルで母と向かい合って座っていると、

母が深刻な表情でこう言いました。

「あなたには何の才能があるのかしら……」

 

私は「才能」という言葉の響きにドキドキしました。

「才能」という日本語は知っていましたが、

生まれ育った教会のコミュニティでその言葉が使われることはなかったのです。

教会では、自分のやりたいことや欲求を後回しにして

自分の人生を教会の活動に捧げることが「正しい生き方」であると教えられていたからです。

 

世界中に800万人の信者がいる中で、

子どもの得意分野や才能を見つけようとする親は、

おそらく私の母だけだったと思います。

私は、母が自分の得意分野を見つけようとしてくれていることを感じて、

子どもながらに嬉しく思いました。

 

高校生だった私は、微笑みながら母の顔を見つめました。

母は、困った顔をして私を見ていました。

姉が自分のやりたいことを見つけて、「建築士になる」と決めたのとは対照的に、

私は何かをしたいと言い出すこともなく、

親から見ても得意分野を見つけるのが難しいと思い、悩んでいた様子でした。

 

その後、私は若くして結婚し、24歳で実家へ出戻ることになりました。

その時は母も「やっぱり娘の才能を見つけて、なんとか訓練しないと!」と決意したのです。

そして、「私が魚を捕る方法をあなたに教えます」と宣言しました。

 

職業訓練のテーマについても母から発表がありました。

「あなたの得意分野は、書くことと話すことです。

その2つの分野で仕事ができるように私が教えます」

 

私が高校生の時は、私の才能を見つけることができなかった母でしたが、

私が24歳で実家に戻った時に、

ようやく私の才能を見つけたのです。

いきさつについては聞いたことがないのですが、

母が必死に私の才能について分析してくれたことが私にも理解できました。

 

夫からは、「キミはキミで、好きに生きてくれ」と言われましたが、

母がちょうどよいタイミングで希望の光となってくれたので、

私が絶望することはありませんでした。

精神科でPTSDの治療をしながら、

職業訓練を受ける道が開かれました。

 

健康とは言えないような状態でしたが、

未来に光が見えたので、

体調も良くなると楽観的に考えることができました。

母が「手に職をつけるための訓練をする」と言ってくれたことが、

私にとって一番の薬になりました。

 

母の愛を感じて、心が温かくなったのです。

母が言葉よりも行動で愛を表現してくれたことが、

私にとっては癒しとなりました。

 

この頃はまだ、

母と私の関係が共依存(codependency)であることを知りませんでした。

私がイネブラー(enabler)として母を不健康な方法で支えていることにも気づいていませんでした。

 

 

 

 

教会では、「信者は皆、幸せになる」という前提で組織を運営していました。

そのため精神科への通院は避けるべきこととして教えられていました。

 

信者が精神科へ通院して悩みを打ち明けると

ストレスの原因である教会をやめるよう説得される可能性があり、

信者が減ることを恐れてそのような運営をしていたものと思われます。

 

しかし、実際のところは、

心を病んでいる子どもや若い人たちがたくさんいて、

心の病が深刻な状態になってから精神科へ入退院を繰り返すというケースもありました。

 

私の場合は、教会の信者が精神科医師として勤務する病院の予約が取れたので、

その病院に通院することになりました。

信者である医師が「教会をやめたら?」と口にすることはないので、

私としても安心して通院を決めることができました。

 

初診日の数ヶ月前に、

今の状態や悩み事を書いて手紙を送るよう言われていたので、

私は担当の女性医師に向けて手紙を書きました。

「私は自己肯定感が低いです。自分に自信がありません」

それが一番記憶に残っている手紙の内容です。

 

数ヶ月後、初診日を迎えました。

その女性医師は、私より15歳くらい年上で40歳前後の年代の方のようにお見受けしました。

通院する中で、私はPTSDの診断を受けました。

診断名がついて治るわけではなかったのですが、

当時の私は病名がついて安心していました。

 

精神科へ通い出してからしばらくして、

夫と2度目の別居をすることになりました。

彼と私は、それぞれ実家に帰りました。

 

別居して数ヶ月後、私の人生で最初の大きな転機が訪れました。

彼と電話で話をしていた時に、

彼が「仕事がつらいから会社をやめることにした。

僕は親の扶養に入るから、キミはキミで好きにしてくれ」と言ったのです。

正社員の仕事を辞めて、34歳の若さでリタイアするという話でした。

 

私は言葉を失いました。

母に彼の言葉を伝えると、母の顔色はすぐに青ざめました。

聖書(the Bible)の教えには、

「夫は妻や子どもたちを守り、養う」とあり、

教会に通う女性信者は、「家庭を持つことが人生のゴール」と信じていたからです。

病気やケガで働けない場合は除き、

「働きたくないから、働かない」という人が現れることを、

母も私も想像していなかったのです。

 

私が21歳で花嫁になった日、母は42歳でした。

娘を嫁に行かせて、自分は第2の人生を楽しみたいと思っていた時に、

私が病気で戻ってきたのです。

しかも、別居中とはいえ、娘の夫が「働きたくない、親に養ってもらう」と言い出しました。

母は46歳、私は24歳になっていました。

 

母は、ものすごくショックを受けていました。

女手一つで子どもたちを育て上げ、

聖書(the Bible)の教えも信じてきたのに、

教会の教えがすべて合っているとは限らないということに気づいたのです。

 

私も、目の前が真っ暗になりました。

大学も行っていないし、手に職があるわけでもありません。

月に数万円の仕送りはなくなってしまうということが予想できました。

夫が「僕は親の扶養に入るから、キミはキミで好きにしてくれ」と言った瞬間、

結論は出ていました。

 

その言葉を聞くまでは「絶対に離婚はしない」と決めていました。

離婚禁止の教会コミュニティで離婚すると、壮絶ないじめを受けます。

そのため、別居はしたものの、離婚はしたくなかったのです。

でも、「キミはキミで好きにしてくれ」と言われて「離婚するしかない」と思いました。

 

離婚することは心の中で決めたものの、

何をして生きていったらいいんだろう、と漠然と考えていたある日、

母が驚きの宣言をしました。

 

「欧米の良家の親というのは、子どもにただお金をあげるのではなく、

生きていくための方法を伝授するのよ。

それと同じ方式で、

私は、あなたに魚はあげないけれど、『魚を捕る方法』を教えます」

 

私は心の中で叫びました。

「お母さん、カッコイイ!」

 

魚を捕る方法、つまり手に職をつける手段は想像がつきませんでしたが、

私は、「この人を師匠と思って、ついていこう」と心に決めました。

2001年夏、1組の師匠(master)と弟子(apprentice)が誕生しました。

師匠である母は46歳、弟子になった私は24歳でした。

 

 

 

 

 

私は21歳で結婚し、

翌年22歳の時に病気で入院しました。
退院後は、実家に戻って療養生活を始めることになり、

夫とは事実上の別居生活をすることになりました。

母が「回復するまで教会に行かなくていい」と言ってくれたので、

療養していた4ヶ月間は

嫌いだった教会に行かずに済みました。

夫とも離れ、ひとまず危険な状況からは逃げることができました。

ところが、嫌なことから逃げる生活を長く続けることはできませんでした。

 

私が生まれ育った教会のコミュニティでは、

ごく一部のケースを除いて離婚が禁止されていたので、

ドメスティックバイオレンスを受けたからといって離婚することはできませんでした。

そのため、2つの家族で話し合いをして、

夫と私はまた一緒に暮らし始めることになりました。

 

日本の法律面でも大きな問題があった時代でした。

重要な時代背景として、

当時の日本には配偶者暴力防止法(ドメスティックバイオレンス防止法)がありませんでした。

その法律が施行される前の年、2000年に、

私は別居を解消しました。

 

「妻は夫から暴力をふるわれても耐えるのが当たり前」というのが当時の日本文化でしたし、

夫婦間の暴力について、警察は介入することができなかったのです。

 

4ヶ月の別居期間の後、私は夫のところに戻り、

教会にも行き始めました。

25年以上前のことなので当時のことは細かく覚えていませんが、

彼と再度暮らし始めてからの会話の中で、

特に印象に残っている彼の言葉があります。

 

それは、「体力つけようね」という言葉でした。

どういう意図で彼がそう言ったのかは分かりませんが、

自分の人生にとって重要なテーマのような気がして、

「体力」について考えるようになりました。

 

「体力ってなんだろう? 体力って、あとから増やせるものなのだろうか?

夫より10歳も若い23歳の私に、本当に体力はないのだろうか?」

 

そんなことを考えていると、

身体が重くて寝込んでばかりいる今の自分が本来の自分ではなく、

「偽物の自分」のように思えてきました。

10代の時の私は、体力は普通で、

スポーツはできる方でした。

 

特に得意だったのが100メートル走( 100‑meter dash)で、

中学生の時には、100メートルを14秒というタイムで走っていました。

東京都の大会に出るほどではありませんでしたが、

学年の女子生徒の中では1番速かったのです。

 

高校生になってからは、いくつかの競技をこなすスポーツテストで、

学年の上位20位以内に入る成績でした。

100メートル走( 100‑meter dash)、走り幅跳び( long jump)、懸垂 (pull‑ups)など、

特に力を入れなくても学年の女子生徒の中で上位20位以内に入っていたのです。

身体能力も体力も問題ないレベルでした。

 

夫からの「体力つけようね」という言葉で

宗教やドメスティックバイオレンスの洗脳が解け始めたのです。

「これは本当の私じゃない! 健康を取り戻したい!」と強く思いました。

 

とはいえ、気力がわかず、うつ状態が続いていて、

自力ではどうにもならないと感じていました。

そんな時、母がある病院についての情報を持って家に来てくれました。

同じ教会の信者で、精神科医師の仕事をしている人が3人いて、

3人とも都内の1つの病院に勤務しているというのです。

 

1人は男性医師で、全国から教会の信者が殺到していて新規の予約は取れず、

別の男性医師は、患者の話を聞く診療はせず、薬の処方だけするというスタイルで、

もう1人の女性医師は、数ヶ月先であれば新規の診察の予約を取ることができるとのことでした。

 

教会では、「信仰心があれば精神を病まない」という設定になっているため、

基本的に精神科へ行くことは禁止されていました。

ただし、都内のその病院のように「同じ教会の信者が診察してくれる病院」であれば、

堂々と通院できるという状況だったのです。

 

同じ教会の信者の中で、若い人は精神を病んだり身体の病気になったりする人が多かったので、

私のように東京に住んでいて信者の医師に診てもらえる人は恵まれていました。

その女性医師の初診日までの間に、

現在の体調を書いて郵送してほしいとのことだったので、

近況を書いて病院に送ることにしました。