第三百七十九弾「水を統べる者」の続きです
第二章 二つの戦場
一 水と毒と
森の匂いが、どこかおかしかった。
レンは足を止めた。
旅の道すがら、鼻先を掠めたそれは、
土や草木の匂いに混じった、
もっと生々しいもの――血の匂いだった。
しかも尋常な量ではない。
長年、各地を渡り歩いてきたレンの感覚が、
その異様さを瞬時に告げていた。
木々の合間を抜けると、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、地獄だった。
鎧をまとった騎士たちが、
原型を留めぬほどに引き裂かれ、四方に散らばっていた。
千切れた腕、転がる兜、真っ赤に染まった地面。
もはや何人がここにいたのかさえ、
正確に数えることはできなかった。
強烈な血の臭気が、むせ返るほどに立ち込めている。
その惨状の中心に、悪魔がいた。
黒く艶めいた鱗のような肌、
背中から伸びる二対の翼、
額から突き出た捩れた角。
全身から立ち上る陽炎のような魔力の圧が、
周囲の空気を歪ませていた。
悪魔はゆっくりと血に濡れた爪を舐め、
面白くもなさそうに周囲を見渡していた。
(……間に合わなかったか)
レンは奥歯を噛んだ。
だが、瓦礫の陰でかすかに呻き声が聞こえた。
まだ息のある者がいる。
生存者だ。
ならば、話は決まっていた。
レンは静かに、しかし迷いのない足取りで前へ出た。
悪魔がその気配に気づき、億劫そうに視線を寄越した。
人間一人。
取るに足らぬ、とその目が語っていた。
「首を突っ込んでも良い事はないぞ」
低く、地の底から響くような声で悪魔が言った。
唇の端が、愉悦にゆがんで吊り上がる。
「流石にこの状況を見過ごす事は出来ませんね」
レンの声は、驚くほど平静だった。
恐怖の色は一切見当たらない。
それが悪魔の癇に障ったのか、
あるいは単なる余興のつもりだったのか
――言葉が終わるか終わらないかのうちに、
悪魔の口から灼熱の炎が奔流となって放たれた。
轟音とともに大気が焼け焦げる。
だが、その炎がレンに届くことはなかった。
レンの周囲に瞬時に展開された水の膜が、
炎を包み込み、白い蒸気とともに
霧散させてしまったのだ。
「ほう。水魔法使いか」
悪魔の目に、初めてわずかな興味の色が浮かんだ。
「水魔法は最強だと思っているんでね」
レンは淡々と答えた。
その口調には、驕りも気負いもなかった。
ただ、事実を述べているだけだ
という静かな確信があった。
離れた場所で、瓦礫に半ば埋もれながら
この光景を見ていた騎士団の生き残りたちが、
息を呑んで顔を見合わせていた。
「な、なんだあの男は……。
うちの団長でさえ、一瞬でやられたんだぞ、
あの悪魔に……」
震える声で誰かが呟く。
彼らの目に映る光景は、
もはや理解の範疇を超えていた。
悪魔が本格的に動き出した。
両手から次々と繰り出される無数の火槍
――ファイアランス。
一撃一撃が城壁すら穿つほどの
威力を秘めた業火の槍が、雨あられと降り注ぐ。
その連射速度、魔力の奔流には、
寸分の隙も感じられなかった。
悪魔自身、自分のこの猛攻を防ぎきれる者など
いるはずがないと確信していた。
しかし。
ファイアランスがレンに届くことは、
ただの一度もなかった。
放たれる端から、
まるで最初から存在しなかったかのように、
悉く水蒸気となって消え失せていく。
しかも、その消滅までの時間は、
放たれるごとに、目に見えて短くなっていった。
三度目には、着弾の半瞬前に。
五度目には、槍の穂先が悪魔の指先を離れると同時に。
そして、十度目
――悪魔が魔法を発動させたその瞬間、
まだ炎の形すら成す前に、それは掻き消えた。
騎士たちには、もはや何が起きているのかを
目で追うことすらできなかった。
二人の間で繰り広げられているのは、
常人の知覚を遥かに超えた速度の攻防だった。
「お前は……本当に、人間か……?」
悪魔の声から、初めて余裕が消えた。
それほどまでに、レンの魔力量と、
魔法発動の速度は常軌を逸していた。
そして、そのわずかな動揺が生まれた刹那
――悪魔は、自分の体に起きている異変に、
ようやく気づいた。
喉の奥から、何かがせり上がってくる感覚。
次の瞬間、悪魔は大量の血を吐き出していた。
黒く粘つく血が、地面にどす黒い染みを広げていく。
悪魔は膝から崩れ落ち、全身を痙攣させながら、
かろうじて声を絞り出した。
「な、何を……した……」
レンはゆっくりと、悪魔に歩み寄った。
その足取りに、焦りも高揚も見えなかった。
「空気中の水分を、毒に変えました」
静かな声だった。
まるで井戸の水質を説明するかのような、
あまりにも平坦な口調で。
「あなたが呼吸する度に、あなたの肺に、体内に
――もう随分前から、毒は充満しています」
悪魔は信じられないという表情を浮かべた。
だが、もはやそれを言葉にする力すら、
残されていなかった。
「こんな事も出来ますよ」
レンがそう告げたのと同時に
――ぶちり、という鈍く湿った音とともに、
悪魔の右腕が内側から弾け飛んだ。
血肉が四方に飛び散る。
悪魔の喉から、声にならない絶叫が漏れた。
「体内に入った水分を、
膨張させて破裂させることが出来ます」
続けて、左足が。
そして右足が、同じように内側から弾けた。
悪魔はもう、声を上げることさえできなかった。
ただ痙攣する体で、地面に横たわるしかなかった。
レンはその様子を、
感情の読めない目で見下ろしていた。
憎しみでも、快楽でもない。
ただ、なすべきことを、なした
――それだけの静けさが、そこにはあった。
「生きたまま、国に差し出しましょう」
レンがそう呟くと、悪魔の体はゆらりと輪郭を失い、
見えない空間の裂け目へと吸い込まれるように
消えていった。
亜空間への収容。
悪魔の断末魔すら、そこには残らなかった。
戦場に、静寂が戻った。
騎士団の生き残りたちは、ただ呆然と、
その一部始終を見つめることしかできなかった。
誰かが安堵からか、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
レンは彼らのもとへ静かに歩み寄り、
傷の具合を確かめ始めた。
その姿は、先ほどまで悪魔を
無感情に打ち倒していた男と、
同一人物とは思えぬほど穏やかだった。
二 スライムの迷宮
同じ頃。
そこから山を二つ越えた先に横たわる迷宮の奥深くで、
一人の冒険者が、
押し寄せるゴブリンの軍勢と対峙していた。
「生きているか!
僕はフラン、
冒険者ギルドの依頼で君達を助けに来た!」
狭く湿った迷宮の通路に、フランの声が反響した。
数日前に行方を絶った冒険者パーティの捜索依頼
――その現場に踏み込んだ
フランの目に飛び込んできたのは、
無数のゴブリンに取り囲まれ、
蹂躙されつつあるパーティの姿だった。
叫んだが、返事はなかった。
焦燥が胸をよぎる。
だが、フランには焦りを
行動の乱れに変えるつもりはなかった。
フランは短く息を吐くと、
懐から取り出した数匹のスライムを宙へと放った。
その一匹が瞬時に姿を変える
――鋭い翼と鉤爪を持つ鷹の形へと。
スライム・ホーク。
フランはこのスライムを介して、
視覚と感覚を共有することができた。
狭い迷宮の中でも、
これがあれば死角なく生存者を探すことができる。
「探せ」
短い指示とともに、スライム・ホークが羽ばたき、
暗い通路の奥へと飛び去っていった。
それとほぼ同時に、フランの周囲に控えていた
数十匹のスライムたちが、一斉に躍動を始めた。
赤く煮えたぎるようなフレイム・スライムが、
口から火の矢――ファイアローを連続で撃ち出す。
青緑色に光るアシッド・スライムが、
体表から強酸を噴射し、
ゴブリンの皮膚を音を立てて溶かしていく。
白く輝くスノウ・スライムが放つ
アイシクル・ランスが、
次々とゴブリンの胴体を貫いていく。
青白い光を纏うエレクトリック・スライムが、
電撃の網でゴブリンの群れを一瞬で痺れさせる。
その他にも、色も形も異なる無数のスライムたちが、
それぞれの特性を活かした攻撃で、
迷宮の通路を埋め尽くしていく。
そして、フラン自身もまた、戦いの中心にいた。
全身を覆う漆黒のスライム・アーマーは、
どんな刃をも柔軟に受け流し、
なおかつ鋼をも凌ぐ強度を誇っていた。
腰に佩いたスライム・ソードは、
フランの意志一つで刃渡りを自在に伸縮させ、
密集するゴブリンの群れを一薙ぎで切り伏せていく。
さらに、アーマーの各所からは
任意のタイミングでスライム・ソードの刃が飛び出し、
背後や側面から迫るゴブリンをも
容赦なく斬り捨てていった。
死角というものが、フランには存在しなかった。
戦いは、瞬く間に決着した。
通路を埋め尽くしていたゴブリンの群れは、
あっという間にただの死体の山へと変わり果てていた。
鼻を突く血と体液の臭気が、
狭い迷宮内に充満する。
フランはゴブリンの死骸を踏み越えながら、
奥へと進んでいった。
視界の端――正確には、
フランと感覚を共有するスライム・ホークの視界の中に、
冒険者パーティの一人の姿が映った。
「見つけた……」
フランは呟き、足を速めた。
そこに横たわっていたのは、一人の女性格闘家だった。
防具はおろか、衣服の一枚すら残されておらず、
両足は不自然な角度に折れ曲がっていた。
かろうじて意識を保っているのか、
浅い呼吸を繰り返しながら、
虚ろな目を天井に向けている。
一目で理解できた。
逃げられないよう足を折り、
生かしたまま留め置かれていた
――子を成すための道具として。
フランの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
だが、その感情を表情に出すことはしなかった。
今、この場で必要なのは、
怒りではなく、迅速な対応だった。
フランは静かにスライムの一匹を、担架のような形
――歩く寝台へと変形させると、
彼女の体をそっとその上に横たえた。
そして、もう一匹のスライムで
彼女の体全体を薄く覆った。
これで、これ以上、誰の目に晒されることもない。
残る三人のパーティメンバーは、
もはや助けを呼ぶことすら叶わなかった。
冷たくなった彼らの遺体を、フランは丁寧に、
収納用のスライムの中へと納めていった。
せめて、その体だけでも故郷へ届けてやりたかった。
「あまり、すっきりする解決にはならなかったなぁ……」
誰に言うでもなく、フランは小さく呟いた。
今さら悔やんだところで、
どうにもならないことは分かっている。
だが、それでも――もう少し早く、
この依頼を受けていれば。
そんな詮無い考えが、頭の片隅を掠めて消えていった。
フランは重い足取りで、
ゴブリンの死骸が散乱する迷宮を後にし、
街へと続く道を歩き始めた。
(第二章・了)