第三百七十七弾「灰の国境――日本再生クーデター」の続きです

 



# 灰の国境――第二部

## 名もなき戦争

### 第一章 クーデターではなかった日

榊原直人は、自分の名前が「排除対象者リスト」
に載ってから、一度も安心して眠れなくなった。

しかし、彼を逮捕する者は現れなかった。

部屋の前に武装した人間が立つこともなかった。

端末は監視されているかもしれない。

電話は盗聴されているかもしれない。

そう思いながらも、直人は翌朝、
いつものようにコーヒーを淹れた。

そして机に座った。

あの日、日本で何が起きたのか。

直人はもう一度、最初から調べ直すことにした。

これまで彼は、ある一つの前提を疑っていなかった。

――日本国再生評議会が国家を襲撃した。

政府を武力で制圧した。

既存の支配者を排除した。

だから、これはクーデターだった。

世界中がそう報じた。

新聞も。

テレビも。

海外メディアも。

国際機関も。

そして、直人自身も。

誰もが疑わなかった。

なぜなら、
それが最も分かりやすい説明だったからだ。

しかし。

調べ始めて半年が過ぎた頃、
直人は一つの違和感に気づいた。

あまりにも、出来すぎている。

クーデター当日、
日本国再生評議会は複数の地点を同時に制圧していた。

中央省庁。

自治体。

通信施設。

報道機関。

政治家の居所。

だが、それだけではなかった。

直人が古い通信記録を集め、当時の民間警備会社、
港湾関係者、退役した自衛関係者、
そして失踪した公務員の家族まで訪ね歩いた結果。

もう一つの戦闘が存在していたことが分かった。

報道されなかった戦闘。

記録から消された戦闘。

そして、日本国再生評議会ですら、
長い間その存在を公表しなかった戦闘。

日本各地で。

同じ日。

同じ時間帯に。

正体不明の武装集団が動いていた。

最初、直人は再生評議会の別働隊だと思った。

だが違った。

彼らは再生評議会の施設を攻撃していた。

物流拠点。

通信中継施設。

民間企業の研究所。

そして、
評議会が確保しようとしていた政府関連施設。

つまり。

あの日、
日本では一方的な国家転覆など起きていなかった。

戦争が起きていた。

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### 第二章 誰も知らなかった敵

直人がその結論に到達するまで、一年近くかかった。

証拠は断片的だった。

ある場所では、監視カメラの映像だけが残っていた。

ある場所では、銃撃の痕跡だけが残っていた。

ある場所では、死者がいたにもかかわらず、
公式の死亡記録が存在しなかった。

直人は一人の老人に会った。

老人は、クーデター当時、ある地方の港で働いていた。

「軍じゃなかった」

老人は言った。

「少なくとも、日本の軍じゃない」

「何を見たんですか」

「人間を見た」

老人は苦笑した。

「それだけだよ」

「武装していた?」

「していた」

「どこの国の人間だったか分かりますか」

老人はしばらく黙った。

「分からない」

それが一番恐ろしかった。

国籍を示すものは何もなかった。

だが、彼らは明らかに訓練されていた。

統率されていた。

そして、日本国内の重要施設について、
異常なほど詳しかった。

直人はさらに調べた。

すると、一つの仮説が浮かび上がった。

隣国の武装組織。

そして。

その組織に協力する日本国内の反国家武装グループ。

彼らは、既存の日本政府を攻撃する準備をしていた。

目的は何だったのか。

政府中枢の混乱。

通信網の麻痺。

金融市場への攻撃。

報道機関の掌握。

そして。

日本国内に混乱を作り出すこと。

その混乱の中で、誰かが
「政府はもう機能していない」と宣言する。

誰かが「国民を守るための新しい組織が必要だ」
と言い出す。

そして、日本という国は、
自分たちの意思とは関係なく別の方向へ動かされる。

それは、古典的な侵略ではなかった。

国境を越えて軍隊が攻めてくる戦争ではない。

国民自身に、国を壊させる。

社会そのものを、内部から分裂させる。

直人は、その構図を理解した時。

背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

もし、これが事実なら。

日本国再生評議会は。

国家を襲った側ではない。

襲撃を受けるはずだった日本を、
先に動かした側だった可能性がある。

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### 第三章 クーデターという言葉

直人は古い新聞記事を読み返した。

「軍事クーデター」

「民主主義の崩壊」

「武装勢力による国家転覆」

「ファシズムの復活」

見慣れた言葉が並んでいた。

そして。

その言葉は、あまりにも早かった。

まだ何が起きているのか誰も分かっていない段階で。

「クーデター」という言葉だけが、
既に世界中へ流れていた。

誰が最初に言ったのか。

直人は調べた。

一つの海外通信社。

そこから国内のテレビ局。

新聞社。

海外メディア。

国際機関。

言葉は連鎖した。

「クーデター」

一度そう呼ばれると、
それ以外の可能性を考える者はいなくなる。

武装した組織が政府を制圧した。

ならばクーデターだ。

あまりにも簡単だった。

直人は、自分自身の記者時代を思い出した。

速報がある。

時間がない。

他社も報じている。

政府発表はない。

現場は混乱している。

そんな時、人間は最も理解しやすい言葉を選ぶ。

そして。

一度使われた言葉は、
その後の事実の見方まで決めてしまう。

直人はペンを置いた。

「俺も同じだった」

誰に聞かせるでもなく、呟いた。

自分は疑っていた。

既存の権力を疑っていた。

政府を疑っていた。

企業を疑っていた。

しかし。

自分が信じている情報源については、
どこまで疑っていただろう。

「権力を監視する」

それが記者の仕事だと思っていた。

だが。

報道する側もまた、巨大な権力になり得る。

そのことを、
自分はどれほど真剣に考えていただろうか。

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### 第四章 沈黙していた人々

直人は元同業者を訪ね始めた。

かつての新聞記者。

テレビ局のディレクター。

編集者。

海外特派員。

退職したプロデューサー。

最初、ほとんどの人間は口を閉ざした。

「今さら何を調べるんだ」

「危ないぞ」

「昔のことだ」

「俺たちには関係ない」

しかし。

何人目かの元記者が、直人に言った。

「お前、本当に書くのか」

「書きます」

「全部?」

「証明できることだけです」

男は笑った。

「昔のお前なら、そう言わなかった」

直人は答えられなかった。

男はしばらく窓の外を見ていた。

「俺たちは知っていたんだ」

直人は顔を上げた。

「何をです」

「会社の方針が、おかしいことくらい」

部屋の空気が変わった。

男は続けた。

「全部じゃない」

「誰かが外国の工作員だったとか、
そんな話じゃない」

「ただ、妙な力関係があった」

スポンサー。

海外企業。

政治団体。

外国の関係者。

大学。

研究機関。

広告代理店。

「記事にするなと言われる話があった」

「逆に、何度も取り上げろと言われる話もあった」

「理由を聞いても、
上からの判断だと言われるだけだ」

直人は尋ねた。

「なぜ辞めなかった」

男は静かに笑った。

「家族がいた」

その答えに。

直人は何も言えなくなった。

次の人物も。

その次の人物も。

同じようなことを言った。

誰も英雄ではなかった。

誰も完璧な抵抗者ではなかった。

ただ。

会社の中で。

組織の中で。

自分にはどうすることもできない現実を見ながら。

「これはおかしい」

と思い続けていた人間がいた。

声を上げられなかった人間がいた。

声を上げれば仕事を失う人間がいた。

家族を守るために沈黙した人間がいた。

そして。

沈黙した自分自身を、何年も許せずにいた人間がいた。

直人は理解した。

歴史とは。

正義の英雄だけで作られるものではない。

表舞台に立てなかった。

何も変えられなかった。

それでも間違っていると感じ続けた。

そんな無数の人間の後悔もまた、歴史の中に存在する。

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### 第五章 陰謀論という便利な言葉

調査を進めるほど、
直人は一つの言葉に違和感を持つようになった。

陰謀論。

便利な言葉だった。

あまりにも便利だった。

証拠のない妄想。

荒唐無稽な主張。

根拠のない敵意。

確かに、そのようなものは存在する。

だが。

「陰謀論」という言葉を使えば、
調査そのものを終わらせることもできる。

なぜそんなことをする必要があるのか。

誰が利益を得るのか。

その行為にはどんな経緯があったのか。

証拠は存在するのか。

反証は可能なのか。

そこまで調べる前に。

「陰謀論だ」

と言って終わらせる。

直人は思った。

それは、
昔の自分が最も嫌っていた態度ではなかったか。

もちろん。

疑えば何でも真実になるわけではない。

疑念は証拠ではない。

不信感も事実ではない。

だが。

「あり得ない」

という言葉もまた、証拠ではない。

直人は、自分の原稿に一文を書いた。

**『疑うことと信じることは、対立する行為ではない。
どちらも、考えることをやめた瞬間に危険になる。』**

それを書いた時。

部屋のチャイムが鳴った。

直人は時計を見た。

午後十一時四十分。

来客を待っていた時間ではない。

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### 第六章 東雲玲奈

ドアを開けると。

東雲玲奈が立っていた。

以前と同じ黒い服。

以前と同じ、静かな表情。

しかし。

以前とは違うものが、彼女の顔にはあった。

疲労だった。

ほんの少し。

目の奥に。

何年も眠っていない人間のような影があった。

「お久しぶりです、榊原さん」

「どうやって入った」

「まだ入っていません」

玲奈はそう言った。

直人は少し笑った。

「そういう意味じゃない」

「分かっています」

彼女は一礼した。

「入っても?」

直人は黙って扉を開けた。

玲奈は部屋に入り、机の上に積まれた資料を見た。

「随分と集めましたね」

「一年かかった」

「ええ」

玲奈は静かに言った。

「知っています」

直人は彼女を睨んだ。

「監視していたのか」

「あなたを守っていました」

「誰から」

「多くの人間からです」

その答えに。

直人はそれ以上聞かなかった。

玲奈は机の上の原稿を見た。

「あなたが悪ではないかと思っていた
我々に対する印象は、少しは変わりましたか?」

直人はすぐには答えなかった。

窓の外を見る。

かつて。

日本国再生評議会は悪だった。

そう思っていた。

武装して国家を制圧した。

官僚を処刑した。

政治体制を変えた。

自由を制限した。

そういう組織を、悪と思わない理由はなかった。

しかし。

今回の調査で分かったことがある。

自分が見ていた世界は。

事実だけでできていなかった。

報道。

映像。

解説。

評論。

誰かの言葉。

誰かの編集。

そのすべてが積み重なって。

いつの間にか、自分の中に
一つの「真実」が出来上がっていた。

少し疑っても。

「まあ、大筋では間違っていないだろう」

と思っていた。

それが。

最も危険だった。

「変わった」

直人は言った。

玲奈は黙って聞いていた。

「でも、正義だとはまだ言えない」

玲奈は、少しだけ笑った。

「それで構いません」

「俺は、あなたたちが何をしたかを調べた」

「ええ」

「そして、何を防いだのかも調べた」

「ええ」

「でも」

直人は彼女を見る。

「それでも、あなたたちが
これから何をするかまでは分からない」

玲奈は、ゆっくりと頷いた。

「その通りです」

そして。

少し間を置いて言った。

「だからこそ、あなたのような人間が必要なのです」

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### 第七章 悪人の仕事

玲奈は窓際へ歩いた。

「平和を維持するには」

彼女は言った。

「誰かが、悪人と言われても
地道に苦労していかなければならないことがあります」

直人は黙っていた。

「善悪は常に表裏一体です」

玲奈は続けた。

「正しいことを守るために、
誰かが汚れ仕事をしなければならない時もあります」

「誰かを守るために、誰かを止めなければならない」

「自由を守るために、
自由を悪用する人間を止めなければならない」

「平和を守るために、戦う準備をしなければならない」

直人は言った。

「その理屈は危険だ」

「ええ」

玲奈は即答した。

「非常に危険です」

その答えに、直人は一瞬言葉を失った。

「だから」

玲奈は振り返った。

「誰かが、その危険性を
監視し続けなければならないのです」

直人は、元記者として。

初めて、自分の仕事について考え直した。

権力を疑う。

それだけでは足りない。

自分が信じる正義も疑う。

自分が嫌う相手の言葉も確認する。

そして。

誰かを悪と決める前に。

「なぜ、その人間はそうしたのか」

「何を恐れていたのか」

「誰が利益を得たのか」

「他に方法はなかったのか」

そこまで追わなければならない。

それでも。

すべてを理解できるとは限らない。

「安易に悪だと思っても」

玲奈は言った。

「その裏に何があるのかを考えなければ、
本当のことは分かりません」

「そして逆に」

直人が言った。

「安易に正義だと思っても同じだ」

玲奈は微笑んだ。

「ええ」

その瞬間。

直人は初めて、彼女を恐ろしいと思った。

そして。

同時に、少しだけ安心した。

彼女が、
自分たちを完全な正義だと思っていないことに。

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### 第八章 発行者

「あなたの記事は」

玲奈が言った。

「日本国再生評議会の責任で発行します」

直人は眉をひそめた。

「検閲は」

「しません」

「都合の悪い部分も?」

「一切、訂正しません」

「評議会に不利な部分も?」

「もちろんです」

直人は彼女を見た。

「なぜだ」

玲奈は答えた。

「我々を悪だと思うか」

「正義だと思うか」

「それは個人の自由です」

彼女の声は静かだった。

「多くの国民の平和を継続するためには、
我々が悪だと思われようが、正義だと思われようが、
関係ありません」

「我々への評価が目的ではないからです」

直人は尋ねた。

「目的は」

玲奈は答えた。

「平和の継続です」

部屋が静かになった。

直人はその言葉を聞きながら。

彼らの覚悟の一端を見た気がした。

だが。

同時に。

別の疑問も浮かんでいた。

平和のためなら。

どこまで許されるのか。

その答えを。

日本国再生評議会自身が決めていいのか。

L'sコーポレーションは。

本当に日本を守るために動いたのか。

それとも。

日本という国を守ることが、
自分たちの利益になるから動いたのか。

直人は、その疑問を口にしなかった。

まだ証拠がなかった。

だから。

記者として書かなかった。

---

### 終章 第三の答え

数か月後。

榊原直人の記事は発行された。

訂正はなかった。

削除もなかった。

そこには、日本国再生評議会が
行ったことも書かれていた。

救った命。

防いだ攻撃。

そして。

評議会自身が犯した過ちも。

記事は社会を二つに分けなかった。

三つに分けた。

評議会を正義だと信じる者。

評議会を悪だと信じる者。

そして。

どちらとも決めることを拒否する者。

直人は、その第三の人間たちが現れたことを、
少しだけ嬉しく思った。

正義と悪。

敵と味方。

白と黒。

世界を単純に分けることは簡単だ。

だが。

考えることを続けるためには。

その間に立たなければならない。

記事が発行された夜。

直人の端末に、新しいメッセージが届いた。

差出人不明。

本文は短かった。

**『あなたは一つ目の戦争を理解した』**

直人は画面を見つめた。

そして。

次の文章を読んだ。

**『だが、まだ二つ目の戦争が始まっていることを、
あなたは知らない』**

添付ファイルが一つ。

直人は開いた。

そこには。

世界地図。

日本。

隣国。

そして。

L'sコーポレーションの拠点を示す無数の印。

しかし。

それらの中心には。

直人が一度も聞いたことのない組織の名前があった。

**《オルタナティブ》**

画面の下には、一行だけ書かれていた。

**『日本国再生評議会は、日本を救った。
だからこそ、次は彼らを止めなければならない。』**

直人は椅子から立ち上がった。

窓の外を見る。

東京は静かだった。

平和だった。

少なくとも。

今日までは。

そして直人は思った。

歴史には。

正義と悪が戦う戦争だけではない。

悪を倒した者が。

いつか新しい悪になることを防ぐための戦争がある。

その戦争には。

味方もいない。

敵もいない。

あるのは。

真実を知ろうとする者と。

真実を、自分に都合のいい形に変えようとする者だけだ。

榊原直人は端末を閉じた。

そして、机の上に置かれた古い取材ノートを開いた。

最初のページには。

記者になったばかりの頃の自分の文字が残っていた。

**「誰かの言葉を信じる前に、自分で確かめる。」**

直人は、その文字を見つめた。

そして。

静かに、新しい取材を始めた。