雨宮素直という人間を語る上で、
道路交通法第二章第十条
――歩行者は道路を通行する場合において、
歩道と車道の区別がない道路においては、
道路の右側端に寄って通行しなければならない
――この一文を避けて通ることはできない。

素直にとってこの条文は、
単なる法律の一節ではなかった。
それは彼の世界を支える、
揺るぎない秩序そのものだった。
物心ついた頃から、彼は「決められたことは
守られるべきだ」という信念のもとに生きてきた。
信号は守られるべきで、順番は守られるべきで、
そして歩行者は右側を歩くべきだった。
理由を問われれば、彼は淀みなく答えることができた。
対向車両を目視できる位置を歩くことで、
危険を未然に回避できるからだ、と。

だから素直は、左側を歩く人間を見かけると、
必ず声をかけた。
相手が老人であろうと、
子供であろうと、
スーツ姿のビジネスマンであろうと、
関係なかった。

「すみません、右側通行でお願いします」

丁寧な口調、しかし有無を言わせぬ静かな圧。
多くの人間は怪訝な顔をしながらも、
その迫力に押されて右側に寄った。
中には無視する者、舌打ちする者、
罵声を浴びせる者もいたが、素直は気にしなかった。
彼が求めているのは謝罪でも同意でもなく、
ただ「秩序が守られること」だけだったからだ。

その日も、素直はいつも通りの帰り道を歩いていた。
夕方六時、空はまだ橙色の名残を残し、
路地には長い影が伸びていた。

「――おい、待てよ兄ちゃん」

声をかけてきたのは、金髪の男だった。
制服の上着を肩に引っ掛け、
腰パンで歩くその後ろには、
似たような風体の少年たちがぞろぞろと続いていた。
数えると、十五人はいる。
彼らは瞬く間に素直を取り囲んだ。

「さっき俺らのこと睨んだだろ」

「睨んでいません。
左側を歩いていたので、注意しただけです」

素直は淡々と答えた。
その態度が、
かえって金髪の男の神経を逆撫でした。

「はぁ? お前、俺らが誰だか知って言ってんの?」

「知りません。知る必要もありません。
左側通行は危険です。それだけです」

くすくすと嘲笑が輪の中から漏れた。
細身で、黒縁眼鏡をかけ、
リュックを背負ったその立ち姿は、
誰の目にも「弱そうなオタク」としか映らなかった。
だからこそ、彼らは油断していた。

「お前さ、なんかムカつくんだよね。
ちょっと顔貸せよ」

一人が素直の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

その瞬間だった。

素直の右手が、
まるで空気を摘まむような自然さで動いた。
伸びてきた手首を軽く捻る。
ただそれだけの動作で、
大柄な少年の体が独楽のように一回転し、
アスファルトに背中から叩きつけられた。
呼吸ができないほどの衝撃に、
少年は白目を剥いて悶絶した。

「な……っ!?」

輪の空気が一変した。
金髪の男が号令をかけるより早く、
周囲の少年たちが一斉に飛びかかった。

素直の体は、その瞬間から別の生き物のように動いた。
振り下ろされる拳は、
彼の視界の中でスローモーションのように緩慢だった。
半歩だけ引いた重心。
かすめもしない紙一重の回避。
返す手刀は、相手の意識だけを的確に刈り取っていく。
骨を折らない。
急所は外す。
しかし戦意だけは完全に叩き折る
――そんな絶妙な力加減が、
無数の連撃の中で寸分の狂いもなく
再現されていった。

蹴りが来れば、その足首を軽く払うだけで
相手は勝手に転倒し、
後頭部を打たないよう素直はその襟首を掴んで
支えてやる始末だった。
ナイフを取り出した一人がいたが、
素直がそれに気づいた時にはもう、
刃はへし折られて地面に転がっており、
持ち主は自分の手首が変な方向を
向いていないことに心底安堵しながら泣いていた。

一分と経たないうちに、
路地には十数人の少年たちが
折り重なるように倒れていた。
呻き声だけが響く中、
金髪の男――リーダー格だけが、
腰を抜かして後ずさっていた。

「な……なんだよ、お前……」

「暴力を振るってきたのはそちらです。
正当防衛の範囲内で対応しました」

素直は表情ひとつ変えず、
乱れてもいない眼鏡の位置を直した。
息一つ乱していない。
汗すらかいていない。

「大丈夫ですか。
骨は折っていないはずですが、念のため病院へ」

その気遣いすら、
倒れた少年たちにとっては
底知れぬ恐怖でしかなかった。

そして素直は、倒れている少年たちの体を一人ずつ、
丁寧に道路の右端へと引きずり、整然と並べ始めた。
まるで散らかった私物を片付けるかのような、
ごく自然な動作だった。

「ここは車道です。
左側に寝ていると、車に轢かれる危険があります。
右側に寄せておきますね」

通りかかった主婦が、
その光景を見て悲鳴を上げかけて、慌てて口を押さえた。

十数人の不良が、几帳面に右側へ横並びで倒れている
――その異様な光景は、
まるで前衛芸術のインスタレーションのようだった。

「あ、あの人が……」

「一人で全員……」

「でも、なんか、並べ方が丁寧……?」

野次馬たちのざわめきの中、
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。
誰かが通報したのだろう。

素直は、乱れた前髪を軽く整えながら、
静かに呟いた。

「秩序は、守られなければならない」

やがて路地の向こうから、二人の警察官が姿を現した。
彼らは事件現場へ急ぐあまり、
車道の左側を並んで歩いてきていた。

その瞬間、素直の目の色が変わった。

不良十数人を制圧した時とは、また質の違う光
――それは、純粋な「正義感」の発露だった。

「――すみません」

素直は倒れた少年たちの整列作業をぴたりと止め、
まっすぐに警察官たちへと向き直った。



「警察官の方が、
道路交通法第二章第十条に違反されています」

警察署の自動ドアが開いた瞬間、
素直は左肩に警官A、右肩に警官Bを担いだまま、
堂々と受付カウンターへ歩み寄った。
もちろん――右側通行を守って。

「――すみません。
道交法違反者を二名、確保しました」

受付にいた若い事務員は、
目の前の光景に思考が追いつかず、
ただ口を半開きにして固まった。
制服姿の警官二人が、
意識はあるものの完全に戦意を喪失した状態で、
痩身の眼鏡青年の両肩に力なく担がれている。
それだけでも異常なのに、
青年は至って真面目な顔で
「道交法違反者」という単語を口にしている。

「あ、あの……警察官、なんですが」

「知っています。だからこそ問題なんです」

素直は二人をカウンター前の長椅子にそっと
――本当に丁寧に、壊れ物を扱うように
――下ろした。
荒事の後にもかかわらず、
彼らの制服にも身体にも目立った外傷はない。
素直は「暴力に訴えてきた者は徹底的に潰す」
主義ではあったが、
相手を再起不能にすることを望んではいなかった。
あくまで「わからせる」ことが目的だった。

「奥から責任者を呼んでください。
道路交通法第二章第十条、
歩行者の通行方法についての周知徹底が、
この警察署において著しく欠如している事実について、
正式に指摘したいので」

事務員は震える手で内線の受話器を取った。

奥から出てきたのは、恰幅のいい五十代の署長だった。
廊下の向こうで倒れている
――もとい、座らされている自分の部下二人を見て、
署長の顔から一瞬で血の気が引いた。

「な……何事だ、これは」

「初めまして。
道交法違反の現行犯を確保しに参りました」

素直は名刺でも渡すような自然さで、
まったく違うものを差し出した。
スマートフォンの画面
――そこには110番通報の履歴と、通話時間、
そして自分が通報中に告げた
二人の警官の名前と階級がしっかり記録されていた。

「先ほど、そちらの署員お二方が、
現場において歩行者としての
左側通行を行っておられました。
私が指摘したところ、聞き入れるどころか、
証拠保全のために撮影していた
私のスマートフォンを実力で奪おうとされました。
これは公務員による職権を利用した器物損壊未遂、
および暴行未遂に該当すると判断し、
正当防衛の範囲内で制圧しました」

署長は、担架で運ばれてもおかしくないほど
覇気を失った部下二人と、飄々と法律用語を並べる
眼鏡の青年を交互に見た。
頭の中で状況が組み上がらない。
ただ一つだけ理解できたのは
――この青年を怒らせてはいけない、
ということだけだった。

「わ、わかった。
まず、彼らの話を聞こう。少し待っていてくれ」

「結構です。
ですが、一点だけ申し上げておきます」

素直は姿勢を正し、署長をまっすぐ見据えた。
その目には、憤りというよりも、
むしろ純粋な困惑と失望が浮かんでいた。

「法を守らせる立場の人間が法を守っていない。
それは、法治国家として最も危険な状態だと
私は思います。
誰も見ていないところでは違反していい、
なんてルールはどこにも書かれていません。
第二章第十条は、歩行者が車両と
正面から向き合うことで、
危険をいち早く察知できるようにするための規定です。
これは警察官だから免除される、
という例外規定は存在しない」

署長は思わず「その通りです」と頷いてしまい、
後になって自分がなぜ頷いたのか自問することになる。

「本日のところは、口頭注意で済ませます。
ですが今後、私が同じ現場に遭遇した際に、
再び違反が確認された場合――」

素直はそこで一拍置いた。
長椅子の警官二人が、びくりと肩を震わせた。

「次は、正当防衛の範囲について、
私自身も見直す必要が出てくるかもしれません」

その台詞は、脅しというよりもむしろ、
事務的な業務連絡のように淡々と発せられた。
だからこそ、聞いていた全員の背筋に、
得体の知れない冷たさが走った。

素直は一礼すると、踵を返して出口へ向かった。
もちろん、通路の右側を歩いて。

自動ドアが閉まった後、署内には長い沈黙が流れた。
やがて署長が、震える声で口を開いた。

「……あの人、何者だ」

誰も答えられなかった。

ただ、その日を境に、
この警察署管内では「歩行者の右側通行」
に関する啓発ポスターが、
やけに大きなサイズで貼り出されるようになったという。

一方、素直は何事もなかったかのように、
夕暮れの道を、きちんと右側を歩きながら
帰路についていた。
すれ違う人々の中に、また一人、
左側を歩いてくる会社員風の男が見えた。
素直の目に、静かな
――しかし確かな――使命感の光が灯る。

「すみません、少しよろしいですか」

その声を聞いた男は、
まだ今日の自分に何が起ころうとしているのか、
まったく想像もしていなかった。

以降、続く。