# 第一章 浮かぶ街、視られる街

 二五一二年、六月。
 霧雨の残る朝の空に、
無数の車体がまるで見えない糸に
吊られているかのように滑らかに移動していく。
都心部の高度制限は地上五メートル
――衝突を避けるための最低限の逃げ場しか
与えられていないその空間を、
ロボットタクシーの群れが
息をするように行き交っていた。

 リオ・カザマは後部座席で窓に頬杖をつき、
その光景をぼんやりと眺めていた。
彼が乗る車体――G-UNITを搭載した流線型のポッド
――は、彼が指一本触れることもなく
AIによって完璧に制御されている。
加速も減速も、車線変更も、
まるで熟練の運転手が百人がかりで
計算し尽くしたかのように滑らかで、
リオの体には重力の変化すら
ほとんど伝わってこなかった。

「経路変更、二分の遅延が発生します」

 車内AIの声が告げると同時に、
進行方向のホログラムに迂回ルートが表示された。
前方で緊急車両が上昇待機をしているらしい。
リオはその様子を目で追った。
緊急時でさえ、上下に五メートル逃げるだけ
――それがこの都市の空の掟だった。
かつて二一世紀の人類が夢見た「空飛ぶ車」は、
G-UNITという重力制御装置によって確かに実現した。
ナノマテリアルで精製されたメインコアは、
電気を通すだけで浮遊と推進を同時にこなし、
乗用車が消費する電力は旧世代の電気自動車の
百分の一にも満たない。
だが、その恩恵を受けた都市は同時に、
空という最後の自由さえも厳密に区切ることを選んだ。

 人間が自らの意思でハンドルを握れるのは、
都市を遠く離れたクローズドサーキットだけだ。
そこでは高高度飛行も、急加速も、意のままに許される。

だがそれは特権であり、日常ではない。
ほとんどの市民は自動車を所有する意味を見出せず、
リオもまた例外ではなかった。
渋滞という言葉は、彼の世代にとっては
もはや歴史の教科書の中の単語でしかない。
事故のニュースも、彼が物心ついてから
ほとんど聞いた覚えがなかった。
自由に運転するという行為そのものが、
いつしか「趣味」という棚に
静かに収められていたのだ。

 ――便利だ。
安全だ。
それは間違いない。

 だがリオの腕には、
常に小さな違和感がまとわりついていた。
彼の手首で微かな光を灯すスマートバンドと、
耳元に骨伝導で語りかけるスマートグラス。
それらは彼のIDであり、財布であり、免許証であり、
そして彼のDNAと分かちがたく結びついた
「彼自身の証明」でもあった。
盗まれても意味がない。
持ち主のDNA情報と同期していない限り、
バンドもグラスもただの金属とガラスに過ぎない。

 便利だ。
だが、便利すぎる。

 リオの目に映る通りの景色――信号待ちの歩行者、
ベンチに座る老人、子どもを連れた母親
――彼ら一人一人が身につけているスマートグラスは、
警察の要請があれば映像を送信する。
つまりこの街を歩く誰もが、知らぬ間に
「移動する監視カメラ」になっているということだ。

 犯罪は激減した。
検挙率は九割を超えた。
誰もがそれを「正しいこと」だと教えられて育った。

 だが、リオの父はかつて検察官だった。

 彼はふと、三年前のことを思い出す。
父が仕事を失った日のことを。

 司法に携わる者は毎年、
思想試験と呼ばれる審査を受けなければならない。
中立性を保っているか、特定の思想に偏っていないか
――国家が定めた基準によって判定される、
いわば「精神の健康診断」だ。
父はその試験に、二年連続で「要注意」の判定を受けた。

理由は明かされなかった。
ただ、判定結果が出た翌日には、
父のオフィスの権限は凍結され、
法服を着ることは二度と許されなくなった。

 この制度が導入された当初、多くの弁護士や裁判官、
検察官が職を追われた。
人権派と呼ばれた弁護士たちは声を上げたが、
その声はやがて「犯罪幇助の可能性がある」
という一言で封じられていった。
実際に弁護士資格を剥奪された者も少なくない。
マスコミはこぞってこれを「思想統制だ」
「新しい形の粛清だ」と書き立てたが、
世論はそれを支持しなかった。
犯罪被害者たちの権利が
ようやく守られるようになったこの時代に、
加害者の側に立ち続けた者たちへの視線は、
日を追うごとに冷たくなっていったのだ。

 思想試験は司法関係者にとどまらず、
やがて教育関係者、
そして警察関係者にまで拡大された。
特に教育現場では、試験に耐えられず
教壇を去る者が後を絶たなかった。
かつて「聖職」と呼ばれた教師という仕事は、
いつしか「常に思想を測られる仕事」
へと姿を変えていた。

 リオの父は、それでも国を恨まなかった。
「正しいことをしていたつもりだった。
だが、正しさというのは時代によって形を変える。
俺はただ、時代の形に合わなかっただけだ」

 父はそう言って、静かに笑った。
その笑顔がどこか諦めを含んでいたことを、
リオは今でも覚えている。

 車が停止する。
目的地――M工科大学の正門前だった。
リオは降車する前に、ふと窓の外の空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、朝の光が僅かに差し込んでいる。
その光の中を、規則正しく整列した車列が
音もなく滑っていく。

 美しい。
そして、あまりにも整然としすぎている。

 リオはスマートグラスを軽く指で押し上げ、
車を降りた。

(つづく)