昨今の日本の状況を見て
こういうお話を考えました
# 多数の盾
## 第一章 答弁台の静寂
三月の予算委員会は、いつもと違う空気を纏っていた。
衆議院第一委員室の傍聴席は満員だった。
報道陣のカメラが林立し、
NHKの中継車が議事堂の外に三台並んでいるという話を、
永田翔一郎は控室で耳にした。
四十二歳、自由民主連合の中堅議員。当選四回。
地味な経歴の持ち主が今日この場で
何かをしようとしているという予感が、
永田自身にも、それを取り囲む者たちにも、
等しく漂っていた。
「緊張してるか」
と隣の同僚議員、桑原が声をかけた。
「してない」
「嘘つけ」
「してない、と言えば格好がつく」
桑原が笑った。
永田は答弁台へ向かう廊下を歩きながら、
手元の資料を一度だけ見直した。
最高裁大法廷判決。
平成二十六年七月十八日。
外国人に対する生活保護法の適用について、
同法の準用は行政の裁量に委ねられた
事実上の措置に過ぎず、
外国人は同法に基づく受給権を有しない
——その結論を最高裁は明確に示していた。
それから十年以上が経過していた。
判決は出た。
しかし現場は動かなかった。
厚生労働省は従来の通知行政を継続し、
予算は毎年膨らみ続け、受給者数は増加の一途を辿った。
誰もがそれを知っていた。
知っていて、見ないふりをしてきた。
問題は判決の存在ではなく、行政の不作為だった。
永田は答弁台の前に立った。
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委員長の発声とともに、室内の雑音が沈んだ。
永田はマイクの前で一度息を整え、
目線を正面の大臣席へ向けた。
今日の相手は厚生労働大臣ではなく、
その背後に座る官僚たちだった。
答弁に立つのは政務次官の倉本か、
あるいは社会・援護局長の朝比奈か
——どちらにせよ、今日の核心は答弁の内容にある。
「永田翔一郎君」
「はい」
永田は立った。
「今般のマジョリティ保護法、
正式名称・多数者権利保全及び差別是正に関する
法律の施行から三ヶ月が経過しました。
本委員会において私は、同法の観点から、
外国籍保有者に対する生活保護費の給付について
厚生労働省に見解を求めます」
カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。
永田は続けた。声を荒らげることなく、
しかし一語一語を確かめるように。
「平成二十六年の最高裁大法廷判決は、
外国人が生活保護法に基づく法的受給権を
持たないことを明確に判示しました。
これは法解釈の問題ではなく、確定した司法の判断です。
にもかかわらず厚生労働省は
通知による準用という形式を維持し続け、
現在もおよそ四万八千世帯を超える外国籍世帯に対して
年間約千二百億円規模の生活保護費が支出されています。
これは法的根拠を欠いた支出であり、
かつ多数者保護法第七条が禁ずる
『国籍を理由とした日本国籍保有者に対する不利益処分』
の一形態と解釈し得ます。
厚生労働省として、この問題をどのように認識し、
今後どのように対処されるおつもりか、
明確にお答えいただきたい」
静寂があった。
それは数秒間のことだったが、
委員室全体が息を止めたように感じられた。
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答弁に立ったのは、社会・援護局長の朝比奈克典だった。
五十七歳。東京大学法学部出身。
キャリア官僚として三十年以上を厚生労働省で過ごし、
援護行政の分野では省内随一の経験を持つとされていた。
白髪交じりの頭髪を整え、
黒縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男だった。
朝比奈はマイクの前に立ち、
手元の資料に一度視線を落とした。
それから顔を上げた。
「永田委員のご質問にお答えいたします」
声は落ち着いていた。
しかしその落ち着きの中に、何か固いものがあった。
「ご指摘の最高裁判決については、
当省も当然承知しております。
同判決において外国人が生活保護法上の
法的受給権を有しないとの判断が示されたことは
事実でございます。
しかしながら、当省としては、従来より、
昭和二十九年の厚生省社会局長通知に基づき、
永住者や定住者等の在留外国人に対して
生活保護法を準用する措置をとってまいりました。
この措置は——」
「局長」永田が遮った。
「それは承知しています。
私が聞いているのは、
多数者保護法施行後における貴省の方針です」
朝比奈はわずかに間を置いた。
「多数者保護法の解釈については、
当省内でも慎重な検討を重ねております。
しかしながら、現時点において、
当省としては、
当該準用措置を直ちに廃止することは——」
朝比奈は言葉を選ぶように、一瞬止まった。
その一瞬が、すべてを変えた。
「——困難であると判断しております」
委員室がざわめいた。
「困難」ではなかった。
朝比奈が最初に用意していた言葉は
「困難」ではなかった。
速記録にはそう残るだろう。
しかし傍聴席の全員が、カメラの向こうの全員が、
朝比奈が最初に口から出しかけた言葉を聞いた。
*無理です。*
それが空気に溶けた瞬間、永田は静かに座った。
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## 第二章 省内の震動
翌朝、厚生労働省の十九階、
社会・援護局長室の電話は午前七時半から鳴り続けた。
朝比奈は前夜からほとんど眠れていなかった。
答弁から帰庁した後、大臣室に呼ばれ、
副大臣から苦言を呈された。
内閣官房からの問い合わせも入っていた。
しかし朝比奈にとって最も重かったのは、
部下たちの顔だった。
翌朝九時。緊急の局議が召集された。
「多数者保護法コンプライアンス監査室」
——法施行とともに内閣官房に設置されたその機関から、
正式な照会文書が届いていた。
文書の表題は簡潔だった。
*昨日の衆議院予算委員会における
社会・援護局長答弁について、
多数者権利保全及び差別是正に関する法律第十四条
(行政機関による不利益行為の禁止)
との適合性に関する照会*
第十四条。
永田が答弁の中で言及した条文だった。
朝比奈は文書を机に置き、窓の外を見た。
霞が関の空は灰色だった。
「局長」と、傍らに立つ総括審議官の米田が言った。
「顧問弁護士と法制局、どちらに先に連絡しますか」
「両方同時だ」と朝比奈は言った。
「それと——」
「はい」
「昨日の答弁の速記録、
全文コピーして手元に置いておいてくれ」
米田が黙って頷いた。
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監査室から届いた次の文書は、照会から四日後だった。
今度は照会ではなかった。
*行政機関職員行為規範違反に係る調査通知書*
多数者保護法第二十一条に基づく調査の開始。
対象は「昨日の衆議院予算委員会において
日本国籍保有者の権利回復に明白に反する
行政判断を公的に表明した職員
及びその決裁に関与した者」とされていた。
省内に走ったのは衝撃ではなかった。
もっと静かな何か——冬の朝の川面に薄氷が張るような、
そういう種類の震えだった。
朝比奈の部屋に人が集まった。
総括審議官の米田。
援護課長の谷川。
総務課長の三島。
企画課長補佐の浜田。
みな一様に顔色が悪かった。
「法制局の見解は」と朝比奈が聞いた。
「微妙です」と米田が言った。
「多数者保護法の解釈次第では、
当省の従来の通知行政そのものが、
日本国籍保有者に対する不利益処分
と認定される可能性を否定できないと」
「否定できない、か」
「はい」
「法的根拠のない給付を継続することが
差別的行為と認定され得る、と」
「そういう解釈が成立する、と」
沈黙があった。
三島が口を開いた。
「局長、これは——昨日の答弁だけの
問題じゃありませんね」
「そうだ」と朝比奈は言った。
「これは三十年分の問題だ」
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## 第三章 粛清という言葉を使わずに
監査室が省内調査を開始したのは、
通知書の到着から一週間後だった。
調査官が三人、社会・援護局に常駐した。
彼らは静かだった。
声を荒らげることもなく、
威圧的な態度をとることもなかった。
ただ淡々と、文書を求め、記録を参照し、
関係者を個別に呼んで話を聞いた。
それが却って不気味だった、
と後に複数の職員が証言している。
調査の対象は当初、
答弁に直接関与した局長以下の幹部数名に限られていた。
しかし調査が進むにつれて、その範囲は広がっていった。
通知の起案に関与した者。
決裁印を押した者。
過去の予算要求において当該措置の継続を
明記した資料を作成した者。
外部の支援団体と連絡を取り合い、
受給申請の便宜を図った者。
内部の勉強会で「最高裁判決の影響は限定的」
と発言したとされる者。
リストは静かに、しかし確実に膨らんでいった。
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最初の処分通知が届いたのは、
調査開始から三週間後の四月末だった。
受け取ったのは
援護課の係長・桂木誠二、三十四歳だった。
桂木は七年間、援護課に在籍していた。
生活保護の申請受付から決定通知まで、
その事務処理の多くを支える実務担当者だった。
派手な出世とは無縁だが、
業務への習熟度は局内でも評価が高かった。
封筒を開けた桂木の手が止まった。
内容は簡潔だった。
多数者保護法第二十一条に基づく
行政機関職員規範違反の認定。
措置の内容——給与の二十パーセント削減、三ヶ月間。
桂木は封筒を机に置いた。
それから窓の外を見た。
霞が関の春の空は、透明に晴れていた。
「何が違反だ」と桂木は静かに言った。
声は誰にも届かなかった。
「俺はただ仕事をしていた」
しかしその言葉は、既に通用しない世界になっていた。
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処分は連鎖した。
四月の末から五月にかけて、社会・援護局を中心に、
合計四十七名が給与削減の処分を受けた。
削減率は職位と関与の度合いによって異なった。
十パーセントのものもあれば、
三十パーセントのものもあった。
そして六月に入って、解雇の通知が出た。
最初の対象は三名だった。
一人は、総括審議官の米田正人。五十四歳。
昨年度の内部勉強会において、
最高裁判決の「運用上の限界」について
外部有識者を招いて議論した会の主催者として
記録されていた。
一人は、過去に支援団体に対して
申請手続きの便宜を図る形の「情報提供」
を行っていたとされる
企画課長補佐の浜田道昭。三十九歳。
そして一人は、
社会・援護局長の朝比奈克典本人だった。
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朝比奈が辞令を受け取ったのは、
六月の第二週の月曜日の午前だった。
大臣室に呼ばれ、副大臣から直接手渡された。
副大臣は何も言わなかった。
朝比奈も何も言わなかった。
廊下に出て、朝比奈はエレベーターに乗った。
十九階から地下一階まで、一人で降りた。
三十二年間のキャリアが、そこで終わった。
のちに朝比奈は、
ある雑誌の取材に応じてこう語っている。
「私が間違っていたとは、今でも思っていない。
しかし、私が何をしていたかについて、
私自身も十分に考えてこなかったのだとは思う。
国籍を問わず人を助けることは
正しいという確信があった。
しかしその確信が、
誰かを傷つける形になっていたかもしれない
という問いを、私は三十年間、
一度も真剣に立てなかった」
その言葉が何を意味するのかについて、
人々の解釈は分かれた。
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省内の空気が変わった。
それは誰もが言うことだった。
しかし変わり方は、一様ではなかった。
仕事への萎縮、という言葉を使う者もいた。
何が正しくて何が違反になるのかわからない。
書類一枚、電話一本が調査の対象になりかねない。
そういう恐れが、省内の廊下に漂い始めた。
一方で、ようやく変わった、と言う者もいた。
声には出さなかったが、
長年の違和感が解消された感覚を持った
職員も確かにいた。
年配の援護課職員の一人は、匿名でこう話した。
「正直言うと、ずっと引っかかってたんです。
最高裁が判決出してから十年、
俺たちはずっとそれを知りながら続けてた。
誰も止めないから続けた。
でも本当にこれでよかったのかって、
俺はずっと思ってた」
何が正しかったのかは、誰にもわからなかった。
ただ、三十年間動かなかったものが、動き始めていた。
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## 第四章 法律の名前
多数者保護法という通称は、誰が最初に使い始めたのか、
今となっては判然としない。
正式名称は長い。
多数者権利保全及び差別是正に関する法律。
制定の経緯はこうだ。
議員立法として提出されたこの法案の背景には、
十年以上にわたる社会的蓄積があった。
きっかけの一つは、ある大学教授の解雇事件だった。
少数者問題の講義において「多数派の文化的権利」
に言及した教授が、学内の抗議運動によって
事実上の職場追放を受けた。
抗議した学生団体は特定のマイノリティグループを
代弁するとされていたが、調査の結果、
その一部が組織的に他大学の事例にも
介入していたことが明らかになった。
もう一つは、地方自治体の採用試験に関するものだった。
ある自治体において、日本国籍保有者であることが
採用要件から外されていた。
それが訴訟になり、一審・二審と分かれた末に
最高裁で争われた。
判決は採用要件の合理性を認めたが、
訴訟の過程で浮かび上がったのは、
「国籍条項の撤廃」を推進してきた
一連の行政指導の出所だった。
事例は積み重なっていた。
差別の禁止という言葉の下で、
多数者が不利益を受ける構造が慣行として定着していた、
と法の立案者たちは言った。
マイノリティを守るという名目で、
マジョリティへの差別が見えなくされていた、と。
法律はその構造を明文で否定した。
第一条に、こう書かれていた。
*この法律は、すべての者が国籍、民族的出自、
その他の属性に関わらず、
等しく差別から保護される権利を有することを確認し、
多数者に対する差別的行為を禁止するとともに、
不当な権利の付与
又は給付を是正することを目的とする。*
「等しく」という二文字に、
この法律の全てが込められていた、
と評する論者もいた。
---
永田翔一郎は、
法の成立から三年が経過した頃の
インタビューでこう話した。
「私がやりたかったのは、
誰かを排除することではなかった。
等しくする、ということです。
助けるべき人を助ける。
しかしその『助ける』という行為が、
誰かを不当に不利にする形で行われているなら、
それは正しくない。そこを直したかった」
記者は聞いた。
「しかし処分を受けた職員たちについては、
どうお考えですか」
永田はしばらく黙った。
「彼らは、自分たちが正しいことをしている
と信じていたと思います。私もそれは否定しない。
ただ——信じていることと、正しいことは、
必ずしも同じではない」
「それは彼らへの批判ですか」
「いいえ」と永田は言った。
「自分への言葉でもあります」
---
社会・援護局は翌年度、
大規模な人員刷新を経て再編された。
新たな局長に就いたのは、
地方厚生局から登用された四十八歳の女性官僚だった。
彼女は就任の挨拶でこう言った。
「私たちの仕事は、法に従うことです。
法が変われば、私たちは変わる。
それだけのことです」
それだけのことだ、と多くの者が思った。
しかし、それだけのことが、三十年間できなかった。
その事実だけが、静かに、確かに、そこに残っていた。
---
*了*