起きたら見知らぬ天井

とか

起きたら隣に全裸の女性が寝てました

とかいうのって物語でよくある状況ですよね

そんな状況のお話を考えてみました

 

# 見知らぬ天井

## 一

目が覚めた瞬間、青木孝太はまず匂いで異変を知った。

自分の部屋の匂いではない。
柔軟剤か、あるいは何か花に似た香り。
安っぽいワンルームの壁に染み付いた
カップ麺とカビの混じった臭いとは、
まるで別の世界の匂いだった。

天井を見た。

知らない天井だった。

照明器具のデザインが違う。
自分の部屋の蛍光灯の丸いカバーではなく、
細長いペンダントライトが天井から吊り下がっている。
壁紙も違う。
自分の部屋の黄ばんだクリーム色ではなく、
落ち着いたオフホワイト。

頭が割れるように痛かった。

こめかみの奥で何かが脈打つたびに、鋭い痛みが走る。
口の中は砂漠のように乾いていて、
昨夜飲まされたものの残滓が
舌の上にまだ貼り付いている。
胃がぐるぐると抗議を続けていた。

孝太はゆっくりと体を起こそうとして、
シーツの感触がいつもと違うことに気づいた。
自分のシーツは安売りのコットン、ごわごわした安物だ。
これは違う。
滑らかで、少し重みがある。

——ここは、どこだ。

もう一度、天井を見た。
現実確認のように。やはり知らない天井だった。

二日酔いの鈍った頭で、
昨夜の記憶を手繰り寄せようとした。
断片しか出てこない。

テニスサークルの勧誘コンパ。
行きたくもなかったのに、同じ学科の奴に
「ただ飯ただ酒だぞ」と引っ張られた。
居酒屋の個室、にぎやかな先輩たち、女の笑い声。
乾杯。
また乾杯。
「二浪?じゃあ飲める口じゃないか」という声。
グラスを何度も満たされた記憶。
それ以降は——霧だった。

孝太は深呼吸をして、横を向いた。

何気なく。ほとんど無意識に。

そして固まった。

いた。

自分の隣に、人間がいた。

布団から肩が出ていた。
その肩は、明らかに女性のものだった。
なだらかな曲線。
白い肌。
長い黒髪がシーツの上に広がっている。

血の気が引いた。

文字通り、顔から熱が消えていくのがわかった。
鼓動が速くなる。
二日酔いの頭痛と混ざり合って、
世界がぐらりと揺れた。

——落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。

深呼吸。

もう一度深呼吸。

布団の輪郭を目で追った。
隣の人物の体の線が、シーツの下で描く曲線を。
そして確信した。
服を着ていない。
布団一枚を隔てた向こうに、
何も纏っていない女性がいる。

眩暈がした。

孝太は恐る恐る、その女性の顔を覗き込んだ。

見覚えがあった。

——ある、どころではなかった。

大学の入学式から今まで、一ヶ月も経っていない。
それでも孝太はその顔を知っていた。
知らない男子学生はいない
と言われているような顔だった。

東條恵。

去年のミスコングランプリ。
入学前からSNSで名前が出回っていた。
ある財閥系企業の社長令嬢。
成績も優秀で、テニスサークルでも
一年目からレギュラーを張ったと聞いた。
男子から憧れられ、女子からも慕われる、
大学の中で最も輝いている存在の一人。

その東條恵が、今、自分の隣で全裸で眠っている。

孝太の思考が完全に停止した。

数秒間、ただそこにいた。
動くことも、考えることもできずに。

——何が、起きた。

昨夜、何が起きたんだ。

記憶がない。
欠片もない。
どれだけ絞り出そうとしても、
乾杯とビールと笑い声の断片しか出てこない。
自分は昨夜、何をした。
何をされた。
この部屋はどこで、
何故自分はここにいて、
何故彼女は——

「……ん」

恵が小さく声を出した。
寝返りを打つような気配。

孝太は反射的に動いた。

ベッドからそっと抜け出す。
足が床についた瞬間、
体重をかけないよう気をつけながら、
少しずつ立ち上がる。
床板が軋まないように。
息も殺して。

自分の服を探した。

部屋の中を見回すと、
床のあちこちに服が散らばっていた。
シャツ、ジーンズ、靴下。
脱ぎ捨てたように散乱している。
孝太は一つ一つを静かに拾い集めながら、
目が状況を認識するたびに
新たな恐怖が積み重なっていくのを感じた。

——なぜ服が散らばっているんだ。

シャツを頭から被った。
ジーンズを足から通した。
靴下。
ベルト。
上着。

自分の鞄はどこだ。
視線を走らせると、ドアの近くにあった。
昨夜持ち込んだままの状態で、
椅子の背にかかっている。

財布、スマホ。確認した。
両方ある。

恵はまだ眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。

孝太はもう一度だけ、その寝顔を見た。

安らかだった。
何事もなかったように、穏やかに眠っていた。

——俺は、何をした。

答えは出なかった。
出るはずがなかった。
記憶がないのだから。

孝太は鞄を肩にかけて、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと回す。
音を立てないように開ける。
廊下に出た。振り返らずにドアを閉めた。

廊下に出て初めて、
孝太は壁に背をつけてずるずるとしゃがみ込んだ。

膝が震えていた。

頭の中で何かが叫んでいたが、
何を叫んでいるのかよくわからなかった。

「どうなっているんだ——」

声が掠れた。
自分の声とは思えないほど弱々しい、
消え入りそうな声だった。

マンションのエントランスを抜けて外に出た。
朝の空気が冷たかった。
新緑の匂い。
五月の朝。
普通の朝。
世界は普通に動いていた。

孝太の世界だけが、完全に崩壊していた。

---

## 二

大学のキャンパスに足を踏み入れた瞬間、
孝太は空気の変化を感じた。

うまく言葉にできない感覚だった。
視線、とでも言えばいいのか。
あるいは、人の動きの微妙な変化。
自分がその場に現れた途端、
近くにいた女子学生のグループが話をやめた。
孝太と目が合うと、さっと視線を外した。
その目が冷たかった。

——気のせいか。

気のせいであってほしかった。

食堂棟に向かおうとして、また視線を感じた。
今度は一人ではなく、複数の方向から。
囁き声も聞こえた。
何を言っているのか聞き取れないが、
自分の方を見ながら話している。

孝太は足を速めた。

「おい」

後ろから声がかかった。

振り返ると、見覚えのある顔だった。
昨夜のコンパにいた男子の一人。
名前は知らない。
テニスサークルの上級生だったはず。
その後ろにも二人、三人と人が集まってきていた。

「お前、東條に何したんだ」

低い声だった。
怒りを抑えているような、かえって凄みのある声。

「何をって……俺は何も——昨夜の事は覚えて」

「白々しいことを言うな」

別の声が割り込んできた。

いつの間にか、周囲に人が増えていた。
男子学生が六人、七人。
全員の目が孝太に向いている。
友人の顔をした怒りが、じりじりと距離を詰めてくる。

「待ってください、俺は本当に何も——」

「東條が泣いてたぞ」

その一言が、場の空気を変えた。

孝太の全身に、
氷水を浴びせられたような感覚が走った。

——泣いていた?

何かが喉に詰まった。
言葉が出てこなかった。
記憶がないということが、
この瞬間これほど恐ろしいものになるとは
思っていなかった。
何もできないのだ。
否定も、説明も、謝罪も。
何も記憶がない人間に、何ができる。

「待ってください、俺は——」

「逃げるな」

誰かが怒鳴った。

孝太は走った。

理性ではなく本能で、体が動いた。
前を向いて、脚を動かして、キャンパスの中を走った。
後ろから足音が追いかけてくる。
一人ではなく、複数の靴音が地面を叩く。

「捕まえろ」

「逃がすな」

声が追いかけてくる。

二日酔いの頭痛が激しくなった。
走るたびに頭の中で何かが揺れる。
胃が抗議する。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。

キャンパスの中を縫うように走った。
図書館の角を曲がり、工学部棟の裏に入り、
植込みの間を抜けた。
足音が遠ざかった。
近づいた。
また遠ざかった。

正門の方には戻れない。
——どこへ行けばいい。

孝太は息を切らしながら、柱の陰に隠れた。

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## 三

「大変な状況になってるねぇ~」

田中理恵は、本当に楽しそうに言った。

孝太が物陰に息を潜めていたところに、
彼女は何でもないように歩いてきた。
昨夜のコンパにいた先輩。
テニスサークルの三年生。
恵と仲が良いという話は耳に入っていた。

「そんな悠長な事を言ってないで
いろいろ教えてください」

孝太は一歩前に出た。
「お願いします」

頭を下げた。
九十度どころか、それ以上。
腰から折り曲げて、地面に向かって頭を下げた。
このまま土下座になっても構わなかった。
何が起きているのかわからない。
なぜ自分がこんな目に遭っているのかわからない。
誰かに教えてもらわなければ、本当に何もできない。

「……まあ、そんなに頭下げるなよ」

理恵の声のトーンが少し変わった。
笑いが引いた。

「取り敢えず、あんたの家は
多分もう見張られてると思うし。
私の家、来るか?」

孝太は顔を上げた。
「——はい。お願いします」

「ついてきな」

理恵は歩き出した。
孝太は後ろからついていきながら、
一つの疑問が頭に引っかかっていた。

——なぜ家がバレているんだ。

友人はまだいない。
一ヶ月も経っていない。
入学して間もない自分の住所を、
なぜ大学の人間が知っている。
SNSに上げたわけでも、誰かに教えたわけでもない。

その疑問は口に出す余裕がなかった。

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## 四

理恵のアパートは
大学から歩いて十分ほどの場所にあった。

ドアを開けて中に入ると、生活感のある部屋だった。
本棚に教科書と文庫本が混在している。
テーブルの上にはテニスラケットのグリップテープ。
壁に小さなカレンダー。

「座れよ。コーヒーでいいか」

「はい、ありがとうございます」

孝太はソファに腰を下ろした。

女性の部屋に来たのは初めてだった。
母親の部屋を除けば。妙な緊張感があった。
二日酔いの頭痛も、状況の混乱も、
全部ひっくるめた上に、
さらにその緊張感が積み重なる。

「……落ち着かなそうだな」

理恵がキッチンからこちらを見ていた。

「すみません、女性の家に来たのが初めてで」

正直に答えた。隠すほどのことでもないと思った。

理恵は少し間を置いた。

「でも昨夜は恵の家に泊まったんだろ?」

その言葉で、パズルのピースが一つはまった。

あの部屋が——恵先輩の家だったのか。

孝太はやっとそれを理解した。
花に似た香りの部屋。
丁寧に揃えられた家具。
あれが彼女の空間だったのだ。

コーヒーが目の前に置かれた。

「昨夜はいったい何があったんですか」
孝太は両手でカップを持ちながら訊いた。

「お酒をたくさん飲まされたこと以外は
本当に全く覚えていないんです」

理恵はソファの対面に座った。
脚を組んで、少し遠くを見るような目をした。

「テニサーの男子達がさ」と彼女は言った。

「酔ったあんたが、
操り人形みたいに何でも言う通りにしてたから。
面白がって恵に告白させたんだよ」

孝太は黙っていた。

自分が酔っ払ってそういう状態になるなど、
想像したこともなかった。
ニ浪して初めて飲んだ酒ではない。
地元の友人たちと飲んだこともある。
しかし量が違ったのか、飲まされ方が違ったのか
——それとも自分の知らない何かが混じっていたのか
——記憶が根こそぎ消えるほどの飲み方は初めてだった。

「その時に」理恵は続けた。

「誰かが恵にぶつかって。
その拍子に恵があんたを突き飛ばして、
あんたは倒れた。
ビールとか食べ物とか体中に浴びて
びちゃびちゃになって。
それで責任感じた恵が、
自分の家に連れていったんだよ」

状況の輪郭が見えてきた。

全貌ではない。
しかし、少なくとも自分がなぜ
あの部屋にいたかは理解できた。
信じたくない部分もあった。
操り人形のように告白させられたという部分は、特に。
しかし理恵が嘘をつく理由もない。

孝太は少しだけ息を吐いた。

「それなら、なぜ恵さんはベッドで全裸だったんだ」

呟くつもりで言った言葉だった。
独り言のつもりだった。

しかし理恵は聞き逃さなかった。

「恵は全裸で寝てたの?」

孝太は顔を上げた。
理恵の顔が、それまでとは違う表情をしていた。
先ほどまでの、どこか余裕のある表情が消えていた。

「……はい」

理恵は天を仰いだ。

天井を見上げて、小さく息を吸った。

長い沈黙だった。
外から鳥の声が聞こえた。
車が通り過ぎる音。
世界は相変わらず普通に動いていた。

やがて理恵は孝太に向き直った。
その顔には、隠しきれない何かがあった。

「恵はさ」と彼女は静かに言った。

「酔うと、豹変するんだよ」

孝太は黙って聞いた。

「普段はちゃんとしてるだろ、あいつ。
真面目で、しっかりしてて、
いつでも人の目を気にしてる。
でも酔うと、全部が外れる」
理恵は少し間を置いた。

「恵が処女を捨てた時も
——酔った勢いで後輩をお持ち帰りした時なんだ」

部屋の空気が変わった気がした。

「全裸だったって事はもしかしたら……」

理恵の顔が青ざめていた。

孝太は自分の顔が、
それ以上に白くなっているだろうと思った。
指先が冷たくなっていた。
コーヒーカップを持っているのに、
熱が伝わってこない。

頭が、
ゆっくりと最悪の可能性に向かって動き出していた。

止められなかった。

止める方法がなかった。

昨夜の記憶は、欠片もない。