最近 SNSで分割して書いた文章に対して
「目が滑る」と文句を言ってくる人が何人かいて
「目が滑る」という言葉を初めて聞いたので
どういう事か数日に渡って調べてみました
・・・で、その結果出来たお話です
# 目が滑る
## 一
田中浩市が初めてスマートフォンを手にしたのは、
小学校二年生の春だった。
当時の浩市には、
それが何であるかを深く考える余裕などなかった。
光る画面を指で撫でると、
絵が動く。音楽が流れる。それだけで十分だった。
リビングのソファに寝転がり、
母親が台所で夕飯の支度をする音を背景に、
浩市は画面の中の世界へと沈んでいった。
絵本は、いつの間にか手に取らなくなっていた。
正確に言えば、絵本を手に取る理由がなくなっていた。
本棚に並んだ背表紙たちは、
ページをめくるたびに紙の角が指に触れ、
時に紙でできた小さな切り傷をくれた。
文字を追う目が疲れると、
自分でページを戻らなければならない。
分からない言葉が出てきても、
その場では教えてもらえない。
本というものは、
読む側にある種の根気を要求する道具だった。
だがスマートフォンは違った。
動画は自動で次へと進む。
指を止めれば、画面の向こうが
勝手に次の話題を差し出してくる。
分からない言葉があれば画面を長押しするだけで
意味が現れ、読みたくなければ飛ばせばいい。
疲れたら音量を上げて耳だけで聞けばいい。
何もかもが、こちらに合わせて動いてくれた。
小学校三年生になる頃には、
浩市は学校から帰るとランドセルを玄関に放り投げ、
まっすぐ充電器からスマートフォンを
引き抜くようになっていた。
宿題は後回し。
夕飯の前の三十分だけという母親との約束は、
気づけばいつも一時間になり、二時間になった。
四年生の時、
学校に一人一台のタブレット端末が配られた。
担任の坂本先生が「これからはこれで授業をします」
と言った瞬間、クラス中がざわめいた。
浩市はそのざわめきの中で、静かに安堵していた。
ようやくここでも自分の知っている世界になる、と。
タブレットで漢字の書き順を学ぶ授業では、
画面の中で筆が動くアニメーションを見て、
指で画面をなぞった。
正解すれば音が鳴り、花丸が現れた。
間違えてもやり直せた。
何度でも。鉛筆を持つ時間は、
図工の授業で絵を描く時だけになり、
それさえも気づけば少なくなっていた。
読書の時間も変わった。
学校の図書室には静かな空気と紙の匂いがあった。
浩市は低学年の頃、その匂いがなんとなく好きだった。
しかし五年生になる頃には、
図書室の本棚の前に立っても、
どこか落ち着かない気持ちがするようになっていた。
本を開いて最初のページを読み始めても、
気がつくと目だけが文字の上を滑っていて、
内容が頭に入ってこない。
どこまで読んだか分からなくなる。
もう一度読もうとしても、同じことが起きる。
結局、浩市はその本を棚に戻した。
家では漫画も小説もスマートフォンで読んでいた。
縦スクロールで流れてくるページは、止まらなくていい。
分からない場面があっても、
続きを読んでいれば何となく分かる気がした。
何となく分かった気がするまま、また次のページが来る。
そういうリズムに、浩市の目も脳も慣れ切っていた。
六年生の卒業文集を書く授業で、
浩市は四百字詰め原稿用紙を渡された。
鉛筆を持つ手が、妙にぎこちなかった。
文字を書いても、自分で書いた字が汚く見えた。
消しゴムで消すたびに紙が毛羽立ち、
やがて薄く破れそうになった。
同じ言葉を繰り返してしまっていることに気づいても、
どこを直せばいいか分からない。
画面なら一瞬で消えて書き直せるのに、
紙の上では消した跡が残り続けた。
三時間かけて、浩市はなんとか四百字を埋めた。
隣の席の女子は、すでに二枚目を書いていた。
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## 二
中学校への入学は、
浩市にとって大きな変化をもたらした。
部活動が始まり、帰宅時間が遅くなった。
それに合わせるように、
母親の浩市への頼みごとも増えていった。
母親の紀子は市内の医療事務の仕事をしており、
夕方の忙しい時間帯に抜け出せないことが多かった。
「帰りにスーパーでこれ買ってきて」
「薬局に寄って」
「クリーニングを受け取って」。
最初のうちは朝食の席でそれを伝えていたが、
中学生になった浩市は朝練のある日には
六時半に家を出る。
紀子もその時間にはもう出勤の準備に追われていた。
朝の食卓は、
二人ともがそれぞれの時間の中で急いでいた。
紀子はある朝、小さなメモ帳を取り出した。
前の夜のうちに、
頼みたいことを書き留めておいたのだ。
箇条書きにして、番号を振った。
```
①スーパーマルエツで卵(Lサイズ10個入り)と
牛乳(成分無調整・1ℓ)
②クリーニング店でワイシャツ3枚受け取り
(引換券は玄関の棚の上)
③薬局でお父さんの胃腸薬
(いつものやつ・ムコスタ錠)
```
浩市はそのメモを受け取り、制服のポケットに入れた。
その日の夕方、
浩市は卵と牛乳だけを持って帰宅した。
紀子が「クリーニングと薬局は?」と聞くと、
浩市は少し考えてから答えた。
「あ、忘れた」
翌週、紀子は少し工夫した。
用件が三つあると分かりにくいのかもしれないと思い、
それぞれを丁寧に説明することにした。
```
①スーパーマルエツに寄ってください
→ 卵(Lサイズ10個入り)と
牛乳(成分無調整・1ℓパック)を
買ってきてください
②帰り道のクリーニング店に寄ってください
→ ワイシャツを3枚受け取ってきてください
→ 引換券は玄関の棚の上にあります
③薬局に寄ってください
→ お父さんの胃腸薬を買ってください
→ ムコスタ錠というお薬です
→ いつものお店の人に見せれば分かります
```
その日も、浩市はスーパーにしか寄らなかった。
紀子が帰宅したのは夜の八時過ぎだった。
台所に買い物袋が一つだけ置いてあるのを見て、
彼女は浩市の部屋のドアをノックした。
「浩市、クリーニングと薬局、どうしたの。
何かあった?」
浩市はゲームの手を止めずに答えた。
「メモが長かったんだよ。
分割してあって、目が滑って読みにくかった」
紀子はしばらく、廊下に立ち尽くした。
「目が、滑る?」
「うん。途中で何書いてあるか分かんなくなる」
紀子は「そう」とだけ言って、ドアを閉めた。
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## 三
夫の慎一が帰宅したのは日付が変わる少し前だった。
紀子はリビングで待っていた。
慎一は営業職で、月の半分以上は残業か
得意先との付き合いで遅くなる。
玄関で革靴を脱ぐ背中を見ながら、
紀子は浩市の話を切り出した。
「ねえ、浩市のことなんだけど」
「ん」
「メモを渡したのに用事ができていなくて。
理由を聞いたら、
目が滑って読みにくかったって言うの」
慎一は冷蔵庫からビールを取り出しながら、
「目が滑る?どういう意味だ」と言った。
「それが分からなくて。ちょっと心配で」
「まあ、中学生なんてそんなもんじゃないか。
めんどくさくてやらなかっただけだろ」
「でも言い訳の仕方が変で」
「俺も疲れてるから」
と慎一はソファに深く沈み込んだ。
「また今度 聞くよ」
缶ビールを開ける音が、静かなリビングに響いた。
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翌週の昼休み、
紀子は職場の休憩室で同僚の由美子と向かい合っていた。
「息子さんが目が滑るって言ったの?」
由美子は少し考えてから、
「それ最近ネットでよく見る表現だよ」と言った。
「若い子たちがSNSで使ってる。
長い文章を読もうとすると、
目が文字の上を滑っていって内容が入ってこない
っていう感覚」
「でも中学生がそんな」
「なってるんだよ、今の子たち」
由美子はペットボトルのお茶を一口飲んでから続けた。
「ねえ、紀子さん、こういう経験ない?
ネットで漢字を調べると、
その場では分かるけど全然覚えられない。
でも辞書で引いた漢字は、なぜかちゃんと頭に残る、
っていうやつ」
紀子は少し考えて、「あ」と声を上げた。
「ある。確かにある。
スマホで調べると次の日には忘れてる」
「私もそう」と由美子は頷いた。
「あれ、なんで起きるか知ってる?」
「なんで?」
「脳が記憶する必要を感じないから、だって」
紀子は首を傾げた。
「辞書って、引くのに手間がかかるじゃない。
目次を見て、五十音の順番を頭の中で確かめて、
ページをめくって、前後の言葉も目に入って。
それだけの手順を踏んで、
やっと一つの答えにたどり着く」
「うん」
「その一連の過程の中で、
脳はその情報を大切なものとして処理する。
苦労して手に入れたものは覚えている。
でもスマホで調べると、一秒で答えが出てくる。
しかも周りにいろんな情報が溢れてる。
脳はそれを『手軽に手に入るもの』として処理して、
記憶に残す優先度を下げるらしいの」
「つまり、覚えなくていいと判断する」
「そう。だっていつでも調べられるから」
紀子は黙って考えた。
「浩市のことも、そういう事が積み重なって」
「多分ね」と由美子は静かに言った。
「動画も、SNSも、電子書籍も、全部同じだと思う。
情報が次々と流れてくる。分からなくても飛ばせる。
面白くなければスクロールすればいい。
そういうことを何年も繰り返していると、
脳が長い文章を最後まで
追いかけることに慣れなくなっていく」
「読解力が落ちる」
「落ちるというより、鍛えられないまま育つ、
って感じかな。
筋肉と同じで、使わなければ弱くなる」
紀子は窓の外を見た。
薄曇りの空の下、街路樹が風に揺れていた。
「でも今の子たちは、
スマホなしの生活なんて考えられないじゃない」
「そうだね」と由美子も窓を見た。
「タイパって言葉、知ってる?」
「時間対効果、みたいな?」
「タイムパフォーマンス。
短い時間で最大の情報を得る、みたいな価値観。
動画を二倍速で見たり、要約だけ読んだり。
若い人たちの間では当たり前になってる」
「浩市もよく倍速で動画見てる」
「タイパを上げれば上げるほど、
確かに短い時間でたくさんのことを知ることができる。
でもね」
由美子は少し間を置いた。
「深く理解するためには、時間をかけないといけない。
ゆっくり読んで、考えて、
また読んで、初めて自分の中に入ってくる。
それをすっ飛ばして効率だけを追い続けると、
どんどん表面だけを滑るようになっていく」
紀子は「目が滑る」という言葉を思い出した。
浩市が使ったその言葉は、比喩ではなかった。
彼は本当に、文字の上を滑っていたのだ。
表面を流れるだけで、内側に入り込めないまま。
「昔、誰かが言ってたんだけど」と由美子が続けた。
「性善説って、人は生まれつき善である
っていうだけじゃなくて、
学び続けなければ悪に落ちるという意味でもあるって」
「学び続けなければ」
「努力や苦労を続けることを止めた瞬間に、
人は退行する。
それは道徳的な意味だけじゃなくて、
知的な意味でも同じなんだと思う。
読む力も、考える力も、
使い続けなければ失われていく」
休憩室に沈黙が流れた。
遠くで誰かの笑い声がした。
「私、浩市に何かしてやらなきゃいけないと思う」
紀子は静かに、しかし決然と言った。
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## 四
その夜、
紀子は遅くなる前にスーパーに寄り、
浩市の好きなコロッケを買った。
夕飯の後、二人で食卓に向かい合った。
「浩市、少し話したいんだけど」
浩市はスマートフォンをテーブルに置いた。
しかし指はまだ画面の近くに浮いていた。
「スマホとパソコン、
しばらく時間を決めて使ってほしいんだけど」
浩市の顔が変わった。
「は?なんで」
「一日の中で、使える時間を決めたい。
平日は二時間以内。宿題が終わってから」
「意味分かんない」と浩市は声を荒げた。
「みんな普通に使ってるのに」
「みんながどうかは関係なくて」
「虐待じゃん。今時スマホ制限とか」
紀子は深呼吸をした。
「虐待は、子どもを傷つけることよ。
私は浩市を傷つけようとしてるんじゃない」
「でも取り上げるのは」
「取り上げるんじゃなくて、時間を決めるの。
違う?」
浩市は黙った。
「浩市が『目が滑る』って言ったこと、覚えてる?」
「覚えてるけど」
「あれ、おかしいと思わなかった?自分で」
浩市は答えなかった。
「短いメモが読めなかったのよ。
三つの用事が書いてあるだけのメモが」
「読めないんじゃなくて、読みにくかっただけで」
「読みにくかったのはなぜ?」
浩市はまた黙った。
紀子は穏やかに、しかし目を逸らさずに続けた。
「スマホやタブレットで文章を読む時って、
流れてくるじゃない。
自分で止まらなくても、次が来る。
分からなくても飛ばして先に進める。
そういうことに慣れると、
止まって考えるのが難しくなるんだって」
「でもスマホで本も読めるし」
「読めるけど、読む力が育つかどうかは別の話」
浩市は腕を組んだ。
「お母さんにも思い当たることがあってね」
と紀子は言った。
「スマホで何かを調べると、すぐ忘れる。
でも辞書で調べた言葉は覚えてる。
浩市も同じことが起きてると思う。
スマホを使うことが悪いんじゃなくて、
それだけになってしまうのが問題なのよ」
浩市は窓の外を見た。
「手遅れになる前に、
自分でコントロールできるようにならないといけない。
今ならまだ間に合う。
それがお母さんの正直な気持ち」
しばらく沈黙が続いた。
コロッケはもう冷めていた。
「……分かった」と浩市は低く言った。
「でも二時間は短い」
「じゃあ最初は三時間にする。
その代わり、毎日十五分、紙の本を読む時間を作って」
「十五分」
「最初は十五分でいい。続けることが大事だから」
浩市は返事をしなかった。
しかしスマートフォンをポケットにしまった。
それだけで今夜は十分だと、紀子は思った。
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## 五
その夜遅く、紀子は浩市の部屋の前を通った。
薄く開いたドアの隙間から、明かりが漏れていた。
覗くと、浩市は机に向かっていた。
スマートフォンではなく、
本棚から引っ張り出したらしい文庫本を手にしていた。
指でページをめくろうとしては止まり、
また最初から目を動かしている。
読んでいるのか、読めていないのか、
紀子には分からなかった。
ただ、浩市はそこにいた。
流れてくる画面の前ではなく、
動かない文字の前で、立ち止まろうとしていた。
紀子は声をかけずに廊下を戻った。
台所で水を一杯飲んで、電気を消した。
外は静かで、どこかで虫が鳴いていた。
---
**了**