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# 山暮らしの大学生
## 第十二章 メモ帳と商品知識
バイトの初日、
澄雄はスマートフォンのメモアプリを開いて、
教わったことを片端から打ち込んだ。
商品の配置。
番号と通路の対応。
よく聞かれる商品の場所。
工具の種類と用途。
塗料の選び方。
木材のサイズ規格。
打ち込みながら、ちゃんと覚えている気がした。
だが翌日、いざお客さんに聞かれると、
頭の中が空白になった。
スマートフォンを取り出してメモを探すが、
どこに書いたか見つからない。
見つかっても、その文字列が
自分の手で書いたものとは思えないような
他人行儀な感じがした。
二日目の昼休みに、
澄雄は文房具売り場で小さなメモ帳を買った。
三十二ページ、百円の、特に変哲もないメモ帳だった。
その日の午後から、ボールペンで書くようにした。
商品名、通路番号、特徴を短い言葉で。
図が必要なものは簡単なスケッチも添える。
手を動かして書いていると、
書きながら頭の中で一度整理される感覚があった。
打ち込むのとは違う。
キーボードは速すぎて、
思考が追いつかないまま言葉が並んでいく。
手書きは遅いぶん、書きながら考えている。
後で調べてみると、
手書きの方が記憶に定着しやすい
という研究があるらしかった。
デジタルのメモは手軽で大量の情報に
すぐアクセスできる半面、
手間がかからないぶん脳が「覚えなくていい」
と判断するのだと書いてあった。
なるほど、と思った。
個人差はあるだろうが、
澄雄には明らかに手書きの方が合っていた。
一週間もすると、
メモ帳の最初の数ページが、ぎっしりと埋まっていた。
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仕事そのものは、最初の一週間が一番しんどかった。
わからないことを聞かれるたびに
「少しお待ちください」と言って先輩を探しに行く。
通路を間違えてお客さんを連れ回す。
棚の補充をしながら商品名を覚えようとして、
気がつくと閉店間際になっている。
それでも体は正直で、一週間が過ぎると少し慣れて、
二週間が過ぎるとかなり慣れた。
一ヶ月が経つころには、
主要な商品の場所はほとんど頭に入っていた。
ホームセンターは、
澄雄が思っていたよりずっと奥が深かった。
工具の売り場だけでも、
ドライバー一本取っても種類が十を超える。
プラス、マイナス、精密、インパクト、電動。
それぞれに適した素材と用途があって、
間違ったものを使うとネジが潰れたり、
素材が割れたりする。
木材売り場では、同じ「板」でも
針葉樹と広葉樹で強度と加工のしやすさが全然違う。
塗料は屋内用と屋外用を間違えると、
雨で数ヶ月のうちに剥がれてしまう。
働きながら澄雄は、
売り場を歩くたびに山のことを考えた。
これは倉庫の棚に使えるか。
このペンキは屋外の木材に使えるか。
このポリタンクは川の水を貯めるのに向いているか。
自分が実際に必要としている知識と、
売り場の商品が直結していた。
客が何を手に取るかも、観察するようになった。
年配の男性客が工具売り場で
長い時間をかけて選んでいるとき、
声をかけてみると「庭の小屋の屋根を補修したい」
という話だった。
必要な材料を一緒に考えながら売り場を回ると、
お客さんが「助かった」と言って帰っていった。
その後ろ姿を見て、澄雄は自分でも少し驚いた。
一ヶ月前には何も知らなかった自分が、
今は人の役に立てている。
店を出る前に、澄雄はメモ帳に一行書き加えた。
「屋根補修材、防水シートと波板の組み合わせが基本」
山の風呂小屋に使えるかもしれない、と思いながら。
田村先輩がキャンプに来る日を、
バイトのシフト表を見ながら確認した。
今週の木曜と金曜だ。
改めて田村先輩に感謝した。
この仕事を紹介してくれたことへの感謝が、
働くたびに積み上がっていく気がする。
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## 第十三章 帰る場所
木曜日の朝、
澄雄は大学の構内で田村先輩を探した。
中庭のベンチに先輩はいた。
コーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていたが、
澄雄を見つけると立ち上がった。
「おはようございます」
「おう。バイト、慣れてきたか」
「だいぶ。商品の場所は大体覚えました」
「それは早いな」田村先輩は少し目を細めた。
「あそこのホームセンター、
品揃えが多いから覚えるのに時間かかると思ってた」
「メモ帳に手書きにしたら覚えやすくなったんです」
「なるほど」先輩は小さく頷いた。
「で、これ」
差し出したのは、小さな鍵だった。
チェーンロックの合鍵だ。
「スペアとして持ってて。俺が先に行くから」
「軽トラで行くんですよね」
「ああ。今日はいくつか持ってきたいものがあってな。
パジェロじゃ積めないから部の車を借りた」
軽く言うが、荷物の中身が気になった。
澄雄が少し考えている顔をしていたからか、
先輩は「行けばわかる」とだけ言った。
「自分はバイトがあるので、十八時半ごろには戻ります」
「わかった。待ってる」
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昼のカフェで食べていたら、昭雄が来た。
トレーを持って、向かいに座る。当然のような顔だった。
「今日、田村先輩が行くんだろ。俺も行くからな」
「今回で五回目だぞ、お前」
「何が問題なんだ」
「問題はない」
問題は全くなかった。
昭雄が来るたびに食材を持参して料理を作ってくれる。
今や澄雄のキャンプ場での食生活は、
昭雄が来る日と来ない日でかなり差がついていた。
来ない日の自炊が少し雑になっているのは、
否定できない事実だった。
「毎回飯まで作ってくれるのはありがたいけどな」
「作りたいから作ってるだけだ」
「今日は何作るんだ」
「焼きそばとBBQ。
田村先輩に何食べたいか聞いたら、
肉があればいいって言ってたから」
「先輩にも確認したのか」
「当たり前だろ。先輩が来るんだから」
昭雄の準備の良さは、キャンプ経験から来ている。
人数分の食材を計算して、調理の段取りを組んで、
何が足りないかを先に確認しておく。
そういうことが身に染みついていた。
「俺はバイト終わりで十八時半には戻るよ」
「わかった。それまでに先輩と一緒に色々やっておく」
「色々って何だ」
「行けばわかるよ」
先輩と同じ言葉を、昭雄も言った。
澄雄は少し呆れながら、
おにぎりの最後の一口を口に入れた。
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午後の講義が終わり、澄雄はバイトに向かった。
木曜日は十六時から十八時の二時間シフトだ。
エプロンを着けて売り場に出ると、
平日の夕方らしい客の入りで、
仕事帰りに寄ったとおぼしき人たちが行き来していた。
澄雄はいつも通り働きながら、今日も売り場を観察した。
電動工具のコーナーで、
若い女性が棚の前で立ち止まっていた。
DIY用の小型ドライバーを手に取って、
箱の裏を読んでいる。声をかけてみると、
「棚を自分で作りたいんですけど、
これで大丈夫ですか」と聞かれた。
棚の材料と、使う木ねじのサイズを確認して、
それに合った工具を一緒に選んだ。
必要なビットの種類を説明して、
木材売り場での選び方も伝えた。
お客さんが
「ありがとうございます、わかりやすかったです」
と言って歩き出すのを見送りながら、
澄雄はメモ帳を取り出した。
「棚製作:木ねじのサイズに対応したビット確認。
材料は棚板の厚さ次第」
書き込みながら、倉庫の棚のことを考えた。
トレーラーの荷物をいい加減に整理しなければならない。
棚を作れば、かなりスペースが有効に使える。
必要な材料は頭の中でだいたい見当がついた。
十八時になって、バイトが終わった。
ロッカーでエプロンを外しながら、
澄雄は少し足が疲れていることに気がついた。
立ちっぱなしの二時間は、
慣れてきたとはいえそれなりに堪える。
帰りにスーパーで何か買おうかと思い、
冷蔵コーナーをのぞいて、
結局おにぎりと缶コーヒーを買った。
カブのエンジンをかけて、山に向かう。
夜の山道は、今ではすっかり慣れた。
最初はヘッドライトの届かない暗がりが怖かったが、
一ヶ月も通えば木の並びも道の曲がり具合も
体に入ってくる。
ここで少し傾く、
ここで路面が荒れる、
ここで風が出る。
カブが体の延長のように動く。
フェンスの前でカブを止めて、
チェーンロックのスペアキーを取り出す。
外してみると、内側のチェーンが
すでに別のロックで留められていた。先
輩が来た証拠だ。
澄雄は自分のロックも外して中に入り、
またかけ直した。
山道を登る。
木々の間から、広場の明かりが見えた。
キャンプ場に着いたとき
、澄雄は思わずカブを止めて、前方を見つめた。
軽トラが停まっている。
それは予想通りだった。
だが、ドラム缶風呂の周りが変わっていた。
小屋が建っていた。
三方を板壁で囲まれた、屋根付きの小さな小屋だ。
入口は開けてあって、中にドラム缶が収まっている。
トタンの波板で葺かれた屋根が、
ドラム缶の上にきちんと被さっていた。
柱は角材で、しっかりと地面に固定されている。
素人仕事ではない。
寸法が合っていて、
屋根の角度も水はけを考えた傾きになっている。
それから、水場の近くに
大型のポリタンクが置かれていた。
二百リットルはあるだろうか。
青いボディに、蛇口がついている。
その横に、手押しのポンプと、小型の電動ポンプ。
澄雄はカブを止めて、ヘルメットを脱いだ。
ちょうどそのとき、
風呂小屋の入口から人が出てきた。
田村先輩だった。
タオルを首にかけて、湯上がりの顔をしていた。
「帰ったか。バイトお疲れ様」
「先輩、これ……」
澄雄は小屋を指さした。
「今日一日でやったんですか」
「部員が何人か手伝いに来てくれた。
今はもう帰ったけどな。
材料も段取りも昨日のうちに準備してたから、
組むだけなら半日もかからなかった」
「ありがとうございます」
言葉が続かなかった。
頭を下げながら、澄雄は目の奥が
少し熱くなるのを感じた。
バイトに行っている間に、
知らない人たちが自分のために
手を動かしてくれていた。
「気にするな」
先輩はタオルで髪を拭きながら、当然のように言った。
「ポリタンクは部員の実家から。
使わなくなったのを譲ってもらった。
ポンプ二台も同じだ。
電源がソーラーだけだから、
念のために手動のも置いておいた」
「手が届いてますね、いつも」
「経験からくる心配性だよ」
先輩は少し笑った。
「これで川まで毎回バケツを持って行かなくて済む」
澄雄は小屋に近づいて、中を確認した。
ドラム缶の設置位置も微調整されていて、
以前より入りやすい角度になっていた。
壁があるだけで、風が遮られる。
屋根があるだけで、雨の日も使える。
これが毎日使う設備として、どれほど違うか。
小屋の柱の一本を手で触れてみた。
しっかりしていた。揺すっても動かない。
「おかえり」
広場の方から昭雄の声がした。
七輪の前にしゃがんで、
BBQコンロに炭を熾しながら手を上げていた。
「今日は焼きそばも作るぞ。
野菜多めにしたから文句なしだ」
「文句なんかない」
「それと、先輩が持ってきた食材も混ぜていいですか、
って聞いたら混ぜていいって言ってもらった」
田村先輩が「細かいことを気にするな」と笑った。
澄雄はカブを所定の場所に止めて、
荷台に括り付けてきたコンビニの袋を外した。
おにぎりと缶コーヒーだ。
大した差し入れではないが、
手ぶらで帰るのも落ち着かなかった。
「これしかないですけど」
「十分だ」
先輩はおにぎりの袋を受け取って、
「お前が帰ってくるのを待ってたんだよ」と言った。
それが嬉しかった。
待っていてくれる人がいる。
帰ると声をかけてもらえる。
バイトを終えて帰ってきた場所に、
明かりがついていて人がいる。
ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりとさせた。
山の生活は確かに不便で、完璧からは程遠い。
トイレには外に出なければならないし、
冬が来ればもっと寒くなる。
課題はまだ山積みだ。
だが今この瞬間、澄雄には帰る場所があった。
「飯にするか」と昭雄が立ち上がった。
炭が赤く熾きて、網の上で肉が音を立て始めた。
焼きそばの甘辛い匂いが、夜の山に漂い始めた。
田村先輩がおにぎりを開けながらしゃがんで、
炭の状態を確認している。
昭雄が菜箸を持って鼻歌を歌いながら
野菜を炒めている。
澄雄は椅子を一つ引き寄せて、その輪の中に加わった。
今日も人がいる夜だった。
一人は気楽で自由だけれど、
ずっと続けばやはり空洞みたいなものができてくる。
両親を亡くしてからその空洞は
人より深いのかもしれない。
それを埋めてくれるのが、こういう夜だった。
昭雄が「できたぞ」と焼きそばの皿を渡してきた。
湯気が立っていた。
「ありがとう」
「毎回言うな、そんなこと」
昭雄は照れた様子もなく次の皿に焼きそばを盛っていた。
田村先輩が缶ビールを開けながら
「いただきます」と言った。
三人の声が、夜の山に重なった。
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*(以降 続く)*