の続きです
# 春を待つホーム 続編②
## 八 夏と、折りたたまれた簡易ベッド
七月の下旬、
卓はバイトと大学の往復だけで生きていた。
遊ぶ予定がなかった。
友人もいなかった。
だからバイトのシフトに入ることが、
そのまま日々の予定になっていた。
動いていれば余計なことを考えなくて済む。
それだけの理由で、卓はせっせとスーパーへ通った。
ある夕方、
品出しをしていたら弓桁店長が近づいてきた。
五十代の小柄な男で、
いつも胸ポケットにボールペンを二本さしている。
「金元くん、八月もこのシフトで続けてもらえますか。
できれば少し増やしてほしいんだけど」
「大丈夫です」と卓はすぐに答えた。
「助かるよ。
八月は高校生の三人が旅行で抜けるからね」
そうか、と卓は思った。
あの三人が計画していた海の旅行。
ほまれちゃんの親との話し合いが
どうなったかは聞いていないが、
三人分のシフトが空くということは、
たぶんうまくいったのだろう。
自分には関係のない夏の話だ、と思いながら、
卓は棚にドレッシングを並べた。
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アパートに帰ると、
六畳がひっそりと待っていた。
コンビニで買った弁当をレンジで温めて、
床に座って食べる。
テレビをつける気にもなれず、
スマホも特に見るものがなかった。
食べながらぼんやりしていたら、
視界の端に押し入れの前に立てかけた
折りたたみ式の簡易ベッドが映った。
ゴールデンウィークに使って、
明紗ちゃんたちが来た夜にも使った、あれだ。
——あ。
なんとなく思った。
春華ちゃんが、また来るかもしれない。
そんな予定は一切聞いていない。
朱琴からも何も言われていない。
根拠は何もない。
それなのに、
簡易ベッドを目にした瞬間にそう思ってしまった。
次の瞬間、
自分でも気づかないうちに頬が熱くなっていた。
弁当の蓋を持ったまま、
一人で赤面している自分があまりにも間抜けで、
卓は「ないわ」とつぶやいてから
弁当の残りをかきこんだ。
——来るわけないだろ。受験生やぞ。
それはわかっている。
わかっているが、
簡易ベッドをしまう気にはなれなかった。
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## 九 カフェの隅と、令嬢の怒り
大学での卓の行動は、
ほぼ完全にパターン化されていた。
朝、決まった時間に家を出る。
講義棟に入って、端の席に座る。
教授の話を聞いてノートを取る。
昼になったらキャンパス内のカフェへ行き、
一番奥の隅の席を確保して、セットメニューを食べる。
午後の講義を受けて、帰る。
その隅の席が卓の定位置だった。
壁が二方向にあって、視界に人が入りにくい。
誰にも話しかけられない。
卓にとってそこは、
キャンパスで唯一ほっとできる場所だった。
七月のある昼下がり、
卓がいつものようにパスタを食べていたら、
突然声をかけられた。
「あなた、金元卓くんよね」
顔を上げた瞬間、周囲がざわりと動いたのを感じた。
いや、正確には感じたというより、
視線の密度が急に上がったのがわかった。
そこに立っていたのは、背の高い女性だった。
艶のある長い髪、整った目鼻立ち、
それに佇まいからしてどこか違う。
卓でもさすがに名前は知っていた。
小田真莉愛。
経営学部一年。大手企業の社長令嬢で、
読者モデルもやっていると噂で聞いたことがある。
カーストの頂点にいる、という表現が
これほど似合う人間を卓は見たことがなかった。
そういう存在が今、卓の目の前にいた。
卓の頭は一瞬、完全にフリーズした。
「……えっと、はい」
「少し話があるんだけど、いい?」
聞こえているのが
自分たちだけではないことは明らかだった。
周りのテーブルの学生が、
視線を向けたまま固まっている。
「小田真莉愛がなんであそこに?」
という空気が、カフェ全体に広がっていた。
卓には何が何だかわからないまま、
「どうぞ」と向かいの椅子を示すしかなかった。
真莉愛は座った。
テーブルに置いた手が、指の先まできれいだった。
だがその表情は、どう見ても笑っていなかった。
「山﨑ほまれのこと、知ってるわよね」
「バイトが一緒で」
「先月、あの子が無断外泊した夜のこと」
卓の背筋に、すっと冷たいものが走った。
「ほまれが泊まったのが
あなたのアパートだったって、つい最近知ったの」
真莉愛の声は低く抑えてあったが、目が怒っていた。
こう形容するしかない
——怒っている、が、叫んでいないだけで。
「ほまれとは幼い頃からの付き合いなの。
家も近いし、家族ぐるみで。
私にとってほまれは妹みたいなものだから」
「それは……」
「あの子が家出して夜中に知らない男の部屋に
泊まったって聞いた時、どれだけ心配したと思う?」
卓は口を開いたが、言葉が出なかった。
説明しなければならないことはわかっていた。
だが目の前の人間の目の圧が強すぎて、
語彙が全部どこかへ逃げていった。
「あの、経緯があって……」
「経緯?」
「公園で泊まるって言い出したんです、三人が。
その夜、店長から不審者の話を聞いたばかりで、
それは危ないと思って——」
「それをほまれ本人から直接聞くまでは、
信じられないわ」
真莉愛の言葉はきっぱりしていた。
卓を責めているというより、
確認するまでは認めないという意思だった。
それは理不尽でもなかったが、
視線の圧は変わらなかった。
周りの学生がまだ見ていた。
卓は耳が赤くなっているのを自覚しながら、
それでもどうにか口を動かした。
「……では、明紗ちゃんとほまれちゃんも一緒に、
改めて話す機会を作ってもらえますか。
自分だけの言葉では信用してもらえないと思うので」
真莉愛は卓の顔をしばらく見た。
品定めするような目だった。
やがて「わかった」とだけ言って立ち上がり、
「連絡先を教えて」と手を差し出した。
スマホを向けてくる。
卓はたどたどしくQRコードを表示して、交換した。
真莉愛は踵を返した。
その背中が遠ざかると同時に、
カフェ全体がざわめきを取り戻した。
卓はパスタの皿を見た。すっかり冷めていた。
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## 十 ファミレスの円卓
週末の土曜日の午後、
卓は駅前のファミレスに向かった。
待ち合わせの時間より十分早く着いたが、
すでに真莉愛が来ていた。
隣に、見知らぬ女性がいた。
後で紹介された名前は野中莉央。
真莉愛の親友らしく、
穏やかな目をした落ち着いた雰囲気の女性だった。
卓が向かいの席に座ると、
真莉愛がさっそく無言で圧を出してきた。
うまく表現できないが、
こちらに向けられている空気が、
カフェの時より鋭かった。
卓は「お待たせしました」と言ってから
メニューを手に取り、紅茶を頼んだ。
少し遅れて明紗ちゃんとほまれちゃんが来た。
明紗ちゃんは卓と真莉愛を交互に見てから、
「揉めてないですよね?」と小声で確認してきた。
卓は「今のところは」と返した。
ほまれちゃんは真莉愛の顔を見た瞬間、
「真莉愛さん……」と少し縮こまった。
それから「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。
「ほまれは後で話す」と真莉愛は短く言った。
五人がテーブルを囲んだ。
卓は女性四人の中に一人で座っていて、
自分がなぜここにいるのかを考えると
胃がきゅっとなった。
卓が口を開いて経緯を説明しようとした。
だが真莉愛の目が最初から
「あなたの言葉は信用していない」
という色をしていたので、言葉が途中で詰まった。
「私から説明します」と明紗ちゃんが割り込んだ。
明紗ちゃんは淀みなかった。
その日の仕事終わり、
ほまれちゃんが家に帰りたくないと言い出したこと、
三人で公園に泊まろうとしていたこと、
卓に声をかけたのは自分だということ。
テーブルに頼んだジュースのグラスを
両手で持ちながら、はきはきと話した。
「卓さんは最初、関係ないって感じで
帰りかけてたんです。私が引き止めたんです」
「そうなの?」と真莉愛がほまれちゃんを見た。
「そうです」とほまれちゃんがうなずいた。
「卓さんが泊めてくれなかったら、
たぶん私、ほんとに公園にいました。
それはよくなかったと思ってます。
卓さんにも迷惑かけてしまって、ごめんなさい」
「僕が説明できなかったせいで余計な疑いをかけて」
と卓が言った。
声が少し上擦ったが、どうにか最後まで言えた。
真莉愛がまた卓を見た。
今度の目は最初より少しだけ温度が違った。
莉央が「ね、卓くん、悪い人じゃなさそうでしょ」
と小声で真莉愛に言った。
「莉央、静かにして」
「でも実際そうじゃない」
「……わかってる」
真莉愛はコーヒーカップを持って一口飲んだ。
少し間があってから、
「あなたがほまれを危険な目に遭わせようとした
わけじゃないのはわかった」と言った。
卓はほっとして、背もたれに少しだけ体重を預けた。
真莉愛の視線はまだ鋭かったが、
最初のような「断罪する」温度ではなくなっていた。
莉央がうまく間に入って、
話が詰まるたびに柔らかく場をほぐしてくれていた。
ほまれちゃんがおずおずと
「旅行の話してもいい?」と切り出した。
「今さら?」と真莉愛。
「真莉愛さんに協力してほしいことがあって」
と明紗ちゃんが続けた。
「うちの親が旅行に反対してて」
とほまれちゃんが言った。
「真莉愛さんがうちのお母さんに
ひとこと言ってくれたら、
絶対に許してくれると思うんです」
真莉愛はほまれちゃんをじっと見てから、
深々とため息をついた。
「……しょうがないわね」
「え、ほんとに?」
「行ってきなさい、ちゃんと楽しんで。
その代わり、帰ってきたら話を聞かせてよ」
ほまれちゃんが「ありがとうございます!」
と声を上げた。
明紗ちゃんもほっとして笑った。
莉央が「真莉愛、優しい」と言うと、
「うるさい」と返ってきた。
卓は自分の紅茶を飲みながら、
静かにそのやり取りを眺めていた。
自分の話が終わったことで、
ようやく体から力が抜けていくような感覚があった。
全員が女性で、自分だけが場違いで、
ずっと居心地が悪かったが、どうにか乗り切った。
勘定を済ませてファミレスの外に出た。
ほまれちゃんが「ありがとうございました」
とまた卓に頭を下げて、
真莉愛と莉央の方へ歩いていった。
卓も帰ろうと踵を返した。
その時、袖を引かれた。
振り向いたら、明紗ちゃんがいた。
卓の一歩後ろに立っていて、
他の三人には聞こえない距離だった。
明紗ちゃんは少し背伸びをして、
卓の耳元に口を寄せた。
「今回の件の謝罪、また後日するからね」
心臓が一つ、大きく跳ねた。
「あ、いや、謝罪とか全然……」
「ちゃんとするから」
明紗ちゃんはそれだけ言って、ふわりと離れた。
軽く笑って、ほまれちゃんたちの方へ歩いていく。
ポニーテールが揺れながら遠くなる。
卓はそのまま立っていた。
心臓の音がうるさくて、周りの雑踏が一瞬遠くなった。
たぶん顔が赤い。
夕方の空気がまだ蒸し暑かったから、
それのせいだということにしておきたかった。
そそくさと駅へ向かった。
改札を通って、ホームへ降りる。
電車が来るまでの間、
柱に背を向けてスマホを開いた。
特に見るものはなかったが、
顔の向き場所が欲しかっただけだ。
そこでスマホが震えた。
画面を見た。
「春華」
登録したのはゴールデンウィークが終わった後だった。
朱琴から番号を聞いて、迷いながら登録した名前だ。
卓の指が、一瞬止まった。
明紗ちゃんの声が耳の奥に残っていた。
心臓がまだ早かった。頬がまだ熱かった。
そのタイミングで、春華ちゃんからの着信。
卓は必要以上にどぎまぎしながら、
通話ボタンを押した。
「もしもし」
「卓さん、こんにちは。今、大丈夫ですか?」
柔らかい声だった。
京都弁のイントネーション。
二ヶ月前からすこしも変わっていない声。
「大丈夫」と卓は答えた。
答えながら、さっきまで動いていた心臓が、
不思議なくらいすうっと落ち着いていくのを感じた。
「なんか声、ばたばたしてますよ?
今、外ですか?」
「駅にいる。今日ちょっとバタバタしてて」
「そうなんですか。大丈夫でした?」
「まあ、どうにか」
「よかった」と春華ちゃんが言った。
ほっとしたような声だった。
「実はですね、夏休みに少し時間ができそうで」
卓の耳が、立った。
「受験勉強もあるから長くは無理なんですけど、
また朱琴ちゃんと東京に行けたらなって思ってて。
卓さん、迷惑じゃないですか?」
電車が来た。
ドアが開く音がして、人が乗り込んでいく。
卓はその流れに乗りながら、
「迷惑じゃない」と答えた。
声が少し上擦った気がしたが、
電車の音でかき消されたと信じることにした。
「よかった!
じゃあ詳しい日程は朱琴ちゃんと決めてから
連絡しますね」
「うん」
「卓さん、夏バテとかしてないですか?
ちゃんとご飯食べてます?」
「食べてる」
「紅茶ばっかり飲んでそう」
「飲んでるけど」
電話の向こうで、春華ちゃんがくすくすと笑った。
卓は電車の窓際に立って、
流れていく夕暮れの街を見ながら、
その笑い声を聞いていた。
さっきまでの心臓の騒ぎが、もうどこかへいっていた。
明紗ちゃんの耳元の声も、真莉愛の視線も、
ファミレスの居心地の悪さも、
全部が遠くなっていた。
——春華ちゃんが来る。夏に。
簡易ベッドのことを思い出した。
折りたたんで押し入れの前に立てかけてある、あれ。
こんどは誰も見ていないから、赤面してもよかった。
卓は窓の外を向いたまま、少しだけ口の端を上げた。
---
*続く*