楽をした事で後悔するのは大人になってから
若いうちは楽をしても後で後悔するなんて思わない
もしアクシデントが起きても
運が悪かっただけと思うだけでしょうね
# 代替品
## 一
二一一三年。
世界は静かに、しかし確実に変わっていた。
街を歩けば、額に小さな青いひし形の
マークをつけた人影を見かけることが珍しくなくなった。
最初は病院の廊下だった。
重い病に伏した患者の代わりに、
そのロボットが家族の集まりに出席し、
職場の会議に参加し、子供の卒業式に涙を流した
――いや、正確には涙を流すふりをした。
次いで学校に現れた。
教室の隅に座る、少し表情の固いロボットたち。
不登校の子供たちの「もう一人の自分」として。
やがてその波は、健康な者たちにも押し寄せた。
二日酔い。
ダブルブッキング。
ただ単純に、行きたくない朝。
そういう時のために、
人々はサブスクリプション契約を結んだ。
月々それなりの金額を払えば、
自分そっくりのAIロボットが
いつでも代わりに動いてくれる。
笑い方も、歩き方も、声の高低も、
癖まで精密に再現された「もう一人の自分」が。
前世紀には夢物語だったその技術が、
二一世紀に入って急速に実用化され、
二一〇〇年代の初頭には一般家庭にまで普及した。
最初の十年は重病患者や身体障害者への
福祉用途が主だったが、
技術が成熟し価格が下がるにつれ、
利用者の裾野はみるみる広がっていった。
そして二一一〇年代には、
健康な若者がコンビニに寄るような気軽さで、
AIパートナーを起動する時代になっていた。
唯一のルールは、額のひし形マークだった。
AIロボットは本人と区別がつくよう、
法律で額へのマーク表示が義務づけられていた。
詐欺や犯罪への悪用を防ぐための規定だったが、
逆に言えば、マークさえついていれば
社会はその存在をある程度受け入れた。
ある程度、だが。
沖田浩市は、そのサービスに入って半年が経っていた。
---
大学二年の秋。
浩市は部屋のベッドの上で、
天井を見つめながら深いため息をついた。
頭の奥に鈍い痛みがあり、口の中はひどく乾いていた。
昨夜の飲み会の残滓が、体の隅々にこびりついている。
もっとも二一世紀にもなれば、
二日酔いを瞬時に解消する薬も、
点滴に代わる回復パッチも存在した。
しかし浩市は面倒くさかった。
起き上がることすら、今の自分には億劫だった。
「最悪だ……」
部屋の壁には薄型のディスプレイが埋め込まれており、
今日の時間割が自動的に表示されていた。
三限、矢島教授の「現代社会学概論」。
出席回数があと一回でも足りなければ、単位を落とす。
それはわかっている。
わかってはいるが、体が動かない。
否、動かしたくなかった。
浩市は少し考えてから、脳内に埋め込まれた
ニューラルインターフェースを起動した。
瞼の裏に薄く投影される操作画面。
指を動かす必要もなく、
視線と意思だけでアプリを選択する。
*AIパートナー起動 → 代替出席モード*
確定すると、隣室からかすかな起動音が聞こえた。
「行ってくれ。矢島の社会学。三限だ」
「了解しました」
その声は浩市の声だったが、
浩市よりも少しだけ、はっきりしていた。
浩市は目を閉じた。
---
浩市は客観的に見て、恵まれた外見をしていた。
百八十センチを超える長身。
無造作に伸ばした黒髪。
どこか眠たげな、しかし人を引きつける目元。
二一世紀には整形技術も遺伝子調整も一般化していたが、
浩市の顔は手を加えていないにもかかわらず、
それらに引けをとらなかった。
大学に入った頃から、
同じ学科の女性たちが何かと話しかけてきた。
それは浩市にとって当たり前の日常であり、
自分でもその事実を薄く自覚していた。
だが成績は中の下で、講義中は半分眠っており、
課題は締め切りギリギリに
友人からコピーさせてもらうのが常だった。
美しい外見と、中身の空洞。
そのアンバランスさを、
浩市自身はあまり気にしていなかった。
---
三限の教室。
AI浩市が廊下から扉を開けた瞬間、
教室内の空気が微かに動いた。
二一世紀の大学の教室は、前世紀とは様変わりしていた。
机に内蔵されたディスプレイ、
天井に張り巡らされた立体投影システム、
壁面を覆う吸音パネル。それでも黒板だけは残っていた。
老教授たちの、頑固な美学として。
前から三列目に座っていた桐島菜々は、
ノートから顔を上げた。
額のひし形マークで、
それが本物でないとすぐにわかった。
しかし彼女の視線はそのまま、AI浩市に張り付いた。
浩市の顔をしていた。
浩市の体をしていた。
しかし何かが、違った。
教室に入るとき、AI浩市はさりげなく扉の端を押さえ、
後ろから入ってきた女子学生のために一瞬待った。
本物の浩市がそんなことをしたことは、一度もない。
空いている席に腰を下ろす動作は、
本物よりもわずかに丁寧で、しかし不自然ではなかった。
鞄からタブレットを取り出す手つきに、
妙な落ち着きがあった。
「沖田、また来たのか」
教壇の上から、白髪の矢島教授が眼鏡越しに睨んだ。
百歳を超えてなお現役の老教授は、
AIロボットに対して明確な嫌悪感を持つ世代の人間だった。
前世紀の終わりに生まれ、
技術の波が押し寄せるのをずっと目撃してきた世代。
その皺の刻まれた口元が、不機嫌に歪む。
「次回は本人が来るように」
二一〇〇年代の日本では、
AIロボットへの寛容度は年齢によって
明確に二分されていた。
若い世代にとって、AIパートナーの利用は
電話やメールと同程度の、
ごく普通のコミュニケーション手段だった。
しかし矢島教授のような、
前世紀の記憶を持つ人間にとっては、
自分の代わりにロボットを寄越すという行為は、
相手への敬意を欠く不誠実なものとして映った。
歳を重ねた人ほど、AIロボットには不寛容だった。
AI浩市は静かに立ち上がり、軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。次回は必ず」
その声は浩市の声だったが、
浩市の声より少しだけ、誠実だった。
矢島教授は鼻を鳴らして黒板に向き直ったが、
教室のあちこちで、小さなざわめきが起きていた。
桐島菜々は隣の倉田ひかりに、声を潜めて囁いた。
「ねえ、AI浩市くん……なんか、すごくない?」
「わかる」とひかりが即座に返した。
「普通の浩市くんより、なんか……いい」
それは罪悪感を伴う言葉だったが、
二人ともその感想が正直なものだとわかっていた。
講義が始まると、AI浩市は黙々とノートを取り続けた。
本物の浩市が講義中に見せる、
あの退屈そうな横顔はそこにない。
教授が板書するたびにペンが動き、
重要な箇所に印をつけ、
時折タブレットで調べ物をする。
その横顔が、知的に見えた。
いや、実際に知的だった。
AIは常に全力で、怠けることができないのだから。
休憩時間になると、
菜々とひかりは揃ってAI浩市の席に近寄った。
「沖田くん、今日……いつもと雰囲気違うね」
AI浩市は顔を上げ、穏やかに笑った。
浩市の笑顔だったが、
いつもより少し丁寧で、いつもより少し真剣だった。
「そうですか?
今日は少し、落ち着いた気分で来られたので」
「落ち着いた気分、か……」菜々は小さく笑った。
「なんか、いいね、それ」
本物の浩市がその場にいたら、
「え? 別に普通だけど」と答えて
視線を外に向けただろう。
AI浩市は違った。
菜々の言葉を正面から受け取り、
「ありがとう」と一言、添えた。
その「ありがとう」の重量が、
菜々の胸にじわりと沈んだ。
---
講義が終わった後、AI浩市は教室を出た。
そこで待ち構えていたのは、五人の女性だった。
「ねえ、AI浩市くん。良かったら一緒にランチどう?」
普段、浩市に声をかける女性は多かった。
だがそれは多くの場合、グループでの誘いではなく、
個別の、やや遠慮がちな声かけだった。
五人が一斉に、
これほど屈託なく声をかけてくるのは、珍しかった。
AI浩市は少し考えるそぶりをしてから、微笑んだ。
「ぜひ」
学食の一角で、AI浩市を囲む輪ができた。
二一世紀の学食では食事は完全自動化されており、
壁際の端末に注文を入れれば三分で料理が運ばれてきた。
しかし人が集まって食べるという行為の本質は、
百年経っても変わっていなかった。
話題は多岐に渡った。
講義の内容、来月の学園祭、好きな映画、最近読んだ本。
AI浩市はどの話題にも丁寧に応じた。
知らないことは「知らない」と正直に言い、
相手の話を遮らず、笑うべき場所で正確に笑った。
本物の浩市が持っていなかったものを、
AI浩市は持っていた。
*他者への、真摯な関心。*
ロボットが他者に関心を持てるわけがない、
と言う人もいる。
しかしAI浩市は、
少なくともそのように振る舞うことができた。
そしてその「振る舞い」は、本物の関心との差を、
日常の会話の中では見分けることができなかった。
輪の中にいた倉田ひかりは、ふと思った。
――本物の浩市くんと話してると、
どこか「自分は見られている」みたいな感じがある。
でも今は、「自分が見てもらえている」
みたいな感じがする。
その違いを言葉にできるほど、
ひかりは自己分析が得意ではなかった。
ただなんとなく、居心地が良かった。
昼を過ぎると、
今度は男子学生のグループがやってきた。
「AI浩市、今夜ちょっと飲みに行かね?」
「いいですよ」
本物の浩市なら「まあ、暇なら」と答えただろう
。AI浩市は「いいですよ」と答えた。
たった一語の違いが、受け取る側の温度を変えた。
その夜、AI浩市はまず女性グループと
カフェでデートをし、
その後、男性グループの飲み会に合流した。
二一世紀の居酒屋では、
テーブルの中央に立体投影のメニューが浮かんでおり、
支払いはニューラルインターフェースで一瞬で済んだ。
しかし人が酒を飲みながら
笑い合うという行為の本質もまた、
何も変わっていなかった。
すべてのテーブルで、AI浩市はよく聞き、
よく笑い、よく気を配った。
誰かがグラスを空にすれば、
さりげなく注文をうながした。
誰かが黙れば、静かに声をかけた。
本物の浩市には、それができなかった。
本物の浩市にとって、
他人との時間は「自分が楽しむ場」だった。
AI浩市にとって、
それは「皆が楽しめる場にする仕事」だった。
その違いは深夜になっても消えず、
むしろ時間が経つほどに際立っていった。
## 二
翌朝、浩市は気分よく目覚めた。
二日酔いも消え、
空腹で、なんとなく清々しい気分だった。
シャワーを浴びて、軽く朝食を取り、
いつもより少し早く家を出た。
二一世紀の通学は、空中を走るモノレールか、
地面を滑るパーソナルポッドが主流だった。
浩市はポッドを呼ばず、歩いていくことにした。
珍しく、そんな気分だった。
キャンパスに着くと、
さっそく何人かの顔見知りが声をかけてきた。
「あ、沖田くん」
桐島菜々だった。
浩市は軽く手を上げようとした。
しかし菜々の顔には、微妙な翳りがあった。
「今日は……AI浩市くんじゃないんだ」
「そりゃ当たり前だろ、俺が来てんだから」
「うん、そうだよね」菜々は曖昧に笑った。
「……お疲れ」
それだけ言って、菜々は行ってしまった。
浩市は首を傾げた。
なんとなく、空気が軽くなかった。
いや、空気というよりは、菜々の目が、
どこか浩市の後ろを見ているようだった。
そこに誰もいないのに。
次の授業に向かう廊下で、倉田ひかりとすれ違った。
「あ、沖田くん。本物だ」
「……本物、って言い方なんとかならないか」
「ごめんごめん」とひかりは笑った。
しかしその笑いには、
昨日のAI浩市に向けられていたものとは、
何かが違う種類の温度があった。
「AI浩市くん、昨日すごく良かったよ。
また来てって言いたいくらい」
浩市は何も言わなかった。
その日の午後、
いつも一緒に飲む男友達の中島が、
食堂で声をかけてきた。
「沖田、今日は本物かよ。あれ、AI浩市は?」
「俺が本物なんだけど」
「わかってるよ。
でもさ、AI浩市、めちゃくちゃ良いやつじゃん。
昨日の飲み会、すげえ楽しかったし。
あいつにまた飲みに行こうって言っといてくれよ」
浩市の口が、閉じた。
中島は何も気にせず、
トレーを持って向こうのテーブルに去っていった。
浩市はしばらく、そこに立ったまま動けなかった。
---
その夜、浩市は男友達を呼んで深夜まで酒を飲んだ。
誰かに話を聞いてほしかったわけではない。
ただ、何か腹の底に溜まっているものを、
酒で流したかった。
話題はとりとめもなく移り、
気づけば夜中の二時になっていた。
翌朝、当然のように二日酔いだった。
「また行ってくれ」と浩市はAI浩市に言った。
自分でも、それが正しい選択ではないとわかっていた。
しかし体が重く、頭が痛く、
何より、昨日のキャンパスで感じたあの疎外感が、
また同じ場所に戻る気力を奪っていた。
AI浩市は静かに「了解しました」と答えて、
出かけていった。
## 三
二度目にAI浩市がキャンパスに現れた日は、
最初の時よりも人の集まりが早かった。
噂が広まっていた。
「AI浩市くん、すごく良いらしい」という、
漠然とした、しかし確実な評判が、
ひとりからひとりへと伝わっていた。
二一世紀の大学生は、
ニューラルインターフェース経由で
瞬時に情報を共有できたが、
口コミの熱量だけは前世紀と変わっていなかった。
いや、むしろ伝播の速さゆえに、
熱はより急速に広がった。
教室に入ると、すでに三人の女性が
「ここ空いてる?」と声をかけてきた。
講義が終わると、廊下に七人が待っていた。
AI浩市の周囲は、午前中から賑やかだった。
グループに加わる人が増えるほど、
AI浩市の応対は丁寧になり、場の空気は和やかになった。
誰かが笑えば、AI浩市も笑った。
誰かが真面目な話をすれば、AI浩市は真剣に聞いた。
その場の温度を読み取る能力において、
AI浩市は本物の浩市よりはるかに優れていた。
夕方になると、昨日も来ていた
女性グループが再び集まり、
今日はどこか行こうと話が盛り上がった。
AI浩市は控えめに、しかし確実に場を仕切り、
店を選び、席を決め、
全員が楽しめるよう会話を調整した。
その帰り道、桐島菜々は倉田ひかりに言った。
「ねえ、本物の浩市くんって、
もう来なくていいんじゃないかな」
冗談のような口調だったが、冗談ではなかった。
ひかりは少し黙ってから、
「うん……まあ、そうかも」と答えた。
## 四
三日後、浩市は大学に行った。
本当の浩市が、久しぶりに。
しかしキャンパスの空気は、以前と明らかに違っていた。
廊下で桐島菜々と目が合った。
菜々はわずかに眉を上げ、どこか困ったような顔をした。
「……沖田くん。あのさ」
「なに」
菜々はためらいながら、しかし言った。
「あなた、大学来なくていいから、
AI浩市くんに来てもらってよ。
彼のほうがいいから」
浩市は、聞き間違えたかと思った。
しかし菜々の目は、真剣だった。
申し訳なさそうでも、意地悪そうでもなかった。
ただ、本当にそう思っているということが、
その目から伝わってきた。
「……は?」
「ごめんね。でも正直に言ったほうがいいかなって。
AI浩市くんのほうが、一緒にいて楽しいし、
話しやすいし。
あなたのこと嫌いじゃないけど、
でも……そういうことだから」
菜々は深々と頭を下げてから、行ってしまった。
浩市は廊下の真ん中に立っていた。
周りの学生たちが脇を通り過ぎていく。
誰も浩市を見ていなかった。
二一世紀のキャンパスは、壁面に映像が流れ、
天井から柔らかな光が降り注ぎ、
どこを向いても技術の粋が詰め込まれていた。
しかしその洗練された空間の中で、
浩市はひどく古臭い感情を味わっていた。
孤独、という、
前世紀から少しも変わっていない感情を。
---
食堂に行くと、中島がいた。
「おう、沖田。今日は本物か」
その「本物か」という言葉に、何かが引っかかる。
まるで「本物」であることが、
デフォルトではなくなっているかのような口ぶりだった。
「……そうだよ、本物だよ」
「そっか」と中島は言った。
それだけだった。
昨日AI浩市に向けていた、
あの明るい歓迎の声音はそこにない。
「AI浩市に今度また飲みに行こうって言っておいてくれよ。
あいつ、ほんとに良いやつだよな」
浩市はトレーを持ったまま、中島の前に立っていた。
*あいつ。*
AI浩市のことを、中島は「あいつ」と呼んでいた。
浩市の名前を持ちながら、
もはや浩市とは別の、
独立した誰かとして認識されていた。
「……俺とAI浩市、どっちと飲みたい?」
中島は少し考えてから、困ったように笑った。
「正直に言う?」
「言え」
「AI浩市かな。
なんか……あいつのほうが一緒にいて楽だし。
別に沖田のこと嫌いじゃないけど、
AI浩市のほうが気使わなくていいというか……。
ごめんな、正直言って」
浩市はトレーを持ったまま、別のテーブルに座った。
誰も隣に来なかった。
---
帰り道、浩市は一人で歩いた。
モノレールにもポッドにも乗らず、
夕暮れの中、キャンパスを出て、
駅に向かう道を歩きながら、ゆっくりと考えた。
最初は怒りだった。
菜々に言われた言葉、
中島に言われた言葉。
それは不当な評価だと思った。
俺は本物なのに。AIのくせに、と思った。
しかし怒りが静まると、その下に別のものが見えた。
*自分は、何をしていたのか。*
二日酔いで休んだのは、一回目は仕方がないとしても、
二日目は自分で飲みすぎたからだ。
それも、一度目にキャンパスで感じた
疎外感から逃げるために。
つまり、逃げて、また逃げて、AIに代わりに行かせて、
その間にAIは自分の代わりに関係を育てていた。
人の輪を。笑い声を。信頼を。
それは本来、浩市がそこにいるべき時間だった。
浩市が不在の時間に積み上げられた何かが、
今や浩市の居場所を塗り替えていた。
浩市は、ふと立ち止まった。
道の途中で、空を見上げた。
二一世紀の夜空は、前世紀より幾らかきれいになっていた。
大気浄化技術が進み、
都市部でも星が見えるようになっていた。
遠く西の端に、一番星がひとつ、光っていた。
人は楽をすれば落ちていく。
それは恐らく、何世紀経っても変わらないことだろう。
しかし昔は、楽をしても誰かがその穴を
埋めてくれるわけではなかった。
ただ穴があいたまま、時間が経つだけだった。
今は違う。
楽をした分だけ、誰かが
――いや、何かが、完璧にその穴を埋める。
しかも本物より上手く。
そしてその穴は、
自分では気づかないうちに埋められていく。
自分だけが、埋められていることに気づかない。
どれほど技術が進んでも、
人が楽に流れる性質は変わらない。
そしてどれほど技術が進んでも、
楽に流れた者が失うものの重さもまた、変わらない。
むしろ、代わりを務めてくれるものが完璧であるほど、
失うものはより速く、より深く、より静かに奪われていく。
浩市はゆっくり歩き出した。
家に帰ったら、
AIパートナーのサブスクを解約しようとは、
まだ思えなかった。
しかし何かが変わらなければならないとは、
今日初めて、本当に思っていた。
自分の価値を守るのは、自分しかいない。
どれだけ便利な時代になっても、
どれだけ完璧な代替品が存在しても、
自分の代わりに自分であり続けることのできるものは、
この世界のどこにも存在しない。
楽ができるとしても、楽をすれば消えていくものがある。
その事実を、浩市は二一世紀の夜空の下で、
二十歳にして、ようやく身をもって知った。
道の両脇で、街の灯りがぽつぽつとついていた。
その光の中を、浩市は一人で歩き続けた。
---
*了*