海外のスパイものを見ていると
いつも平和ボケな家族が
自らや家族を危険に晒していて
もっと危機感を植え付けないとダメだろ?
って毎度 思います
平和ボケな人ほど
自分や他人を危険に陥れる事が
全く解っていないんですよね
ですぐに人の言動にに騙され
その裏取りもしない・・・
でそれを注意する人には
「陰謀論」や「妄想」と否定する
どうしようもないと思います
# 灰色の家族
## 一
田中修二は、今日も冴えない顔で家のドアを開ける。
スーツは安物で、ネクタイは少し曲がっている。
髪には白いものが混じり始め、
目の下には濃いくまが刻まれていた。
どこにでもいる、疲れた中年サラリーマン。
妻の眼には、そう映っているはずだった。
「また遅かったの」
玄関に立っていた妻、葉子が腕を組んだまま言う。
「夕飯、とっくに冷めてるわよ」
「すまない」
「すまないって言うだけで何も変わらない。
隣の中村さんのご主人、先月も昇進したんですって。
あなた、もう何年同じ部署にいるの?」
修二は黙って上着を脱いだ。
言い訳をする気力もない。
正確には、言い訳をする立場にない。
彼が所属しているのは、表向き存在しない組織だ。
内閣情報調査室の、さらに外側に位置する部門。
コードネームすら持たない、
影の中の影。
十七年間、修二はその組織のために生き、
そのために嘘をつき続けてきた。
「沙耶は?」
「自分の部屋。パパには会いたくないって」
それも、聞き慣れた言葉だった。
## 二
任務は、佳境に入っていた。
東アジアの某国の情報機関が、
国内に潜伏エージェントを
複数送り込んでいることが判明し、
修二はその一人、コードネーム「ハリン」を追っていた。
六ヶ月に及ぶ追跡。
ハリンは用心深く、一度として尻尾を見せなかった。
その日、修二は渋谷の雑踏でハリンの影を追っていた。
イヤホン越しに上司の声が流れてくる。
「対象は地下に入った。追え」
修二が人波を縫うように歩き始めたとき、
聞き慣れた声が耳を打った。
「え……パパ?」
振り返る。十六歳の娘、
沙耶が友人二人と並んで立っていた。
制服姿で、大きな買い物袋を提げている。
その目には、驚きと、それからいつもの冷めた光。
「こんなところで何してるの」
「……買い物だ」
「嘘くさ」沙耶は鼻で笑った。
「どうせ会社サボって一人でぶらぶらしてたんでしょ」
イヤホンの中で上司が「どうした」と声を上げた。
修二は素早く通話を切り、愛想笑いを浮かべた。
「友達と一緒か。
いいところで会った。何か買ってやろう」
沙耶の目つきが変わった。
軽蔑から、打算へ。
「……本気で言ってる?」
「ああ」
「じゃあ、あのブランドのブーツ。三万五千円のやつ」
「わかった」
「あと服も。あそこのセレクトショップで一式」
「わかった」
沙耶は友人たちと顔を見合わせ、
それから初めて父親に笑顔を向けた。
作り物の笑顔だと、修二にはわかっていた。
それでも構わなかった。
どうせ自分も、作り物の父親なのだから。
二時間、
修二はハリンを見失った。
その代わり、娘の笑顔を買った。
どちらが高くついたかは、わからない。
## 三
敵は見ていた。
修二が組織に属する人間だということを、
彼らはとうに知っていた。
ハリンを追っていることも。
そして今日、目立つ場所で娘と二人で歩き回り、
大量の荷物を持たせて別れた場面も。
三日後、沙耶は学校からの帰り道に襲われた。
駅から五分の路地。
突然飛び出してきたバイクに跳ね飛ばされ、
沙耶は歩道のガードレールに叩きつけられた。
肋骨二本と、左腕の骨折。
頭を強く打ち、一時は意識を失った。
偶然を装った、完璧なメッセージだった。
*これ以上追うな。さもなくば次は命だ。*
修二が報告を受けたのは、
まさにハリンを追い詰めようとしていたその瞬間だった。
上司の声は低く、硬かった。
「任務を続行しろ。家族のことは後にしろ」
修二は黙って頷いた。
わかっていた。
わかっていても、胸の中で何かが燃えていた。
## 四
葉子からの電話は、三十分後にかかってきた。
「修二!沙耶が、沙耶が入院したの!すぐ来て!」
「今は無理だ」
「何言ってるの?娘が怪我して入院してるのよ!」
「葉子、落ち着いて聞いてくれ。
今日はどうしても外せない仕事が——」
「仕事?仕事仕事仕事って、いつもそれ!
あなたにとって家族は何なの?何なの!?」
葉子の声は震えていた。
怒りと恐怖と、それから長年積み重なった疲労が、
一度に溢れ出したような泣き声。
修二は目を閉じた。
「葉子」
「沙耶、怖い思いしてるのよ。
意識があって最初に言ったこと、知ってる?
パパを呼んでって言ったのよ。
あなたのことを嫌いだ嫌いだって言ってた子が、
パパを呼んでって……」
修二の手が、わずかに震えた。
「わかった。行く」
「——え?」
「今から行く。病院はどこだ」
上司には無断だった。
規則違反だとわかっていた。
プロとして、あるまじき判断だとも。
それでも足は動いていた。
## 五
病院の駐車場に車を入れたとき、
修二の全身に警戒信号が走った。
長年の勘というものがある。
空気の質、人の動き、視線の角度。
何かがおかしかった。
駐車場の端に止まった無人の車。
屋上に立つ人影。
出入り口付近で時間を潰すように立っている男たち。
*罠だ。*
修二は車のドアを開けながら、素早く状況を計算した。
自分を病院に呼び寄せるために、沙耶を使った。
そして今、病院ごと——
携帯が鳴った。葉子からだった。
「修二、今どこ?沙耶がパパはまだかって」
「葉子、今すぐ沙耶を連れてその病室から出ろ。
非常階段を使え。今すぐだ」
「え?何言って——」
「頼む。俺の言う通りにしてくれ。今すぐ動け」
一瞬の沈黙。
「……あなた、変よ。何かあるの?」
「葉子——」
爆発は、その言葉を飲み込んだ。
病院の中層階が、まず弾けた。
続いて一階。
衝撃波が修二の体を吹き飛ばし、
彼は車列の間に叩きつけられた。
ガラスの破片が雨のように降り注ぐ。
遠くでサイレンが鳴り始める。
修二はゆっくりと体を起こした。
耳が鳴っていた。
全身が痛かった。左肩から血が出ていた。
それよりも深い場所で、
何かが音を立てて崩れていった。
## 六
後日、内部報告書はこう記録した。
*田中修二工作員、独断で任務を離脱。
妻・葉子(四十三歳)、娘・沙耶(十六歳)、
病院爆破により死亡確認。
工作員本人は軽傷にて生存。
任務継続の可否を審議中。*
修二は薄暗い部屋の中で、その報告書を読んだ。
後悔していた。
妻に正体を明かさなかったことを。
娘に「見知らぬ人についていくな」
「行動パターンを変えろ」
「誰かに尾行されていると感じたらすぐに知らせろ」と、
言い続けなかったことを。
だが、と修二は思う。
たとえ言ったとして、二人は聞いただろうか。
葉子は現実的な女だった。
目に見えるものしか信じなかった。
夫が「尾行されているかもしれない」と言えば、
「またそんな妄想を」と一蹴しただろう。
沙耶は若く、無敵の感覚の中にいた。
自分が傷つくとは思っていなかった。
思えるはずがなかった。
平和の中で育った者は、危機を肌で感じる回路を持たない。
それは責めるべきことではなく、ただの事実だ。
しかしその事実が、時として命を奪う。
世界には見えない戦場がある。
そこに足を踏み入れた者の家族は、
知らぬままに戦場に立たされることがある。
修二が守ろうとしたものは、その平和だった。
皮肉なことに、その平和が二人を殺した。
## 七
春になっても、修二は生きていた。
新しい任務を与えられ、新しい偽名を持ち、
新しい街に潜伏した。
スーツは相変わらず安物で、
ネクタイは少し曲がっている。
ただ、家に帰る場所はもうなかった。
駅のホームで電車を待ちながら、
修二はコートのポケットに手を入れた。
指先が何かに触れた。
あの日、沙耶が受け取り損ねたレシートだった。
ブーツと、ワンピースと、カーディガンと。
合計七万二千円。
修二はそれを丁寧に折りたたみ、
また元の場所へ戻した。
電車が来た。
彼はその中に消えた。
どこにでもいる、疲れた中年男として。
---
*平和の中にいる者は、嵐の気配を読めない。
読めないまま、嵐の中心に立つことがある。
それが世界の、残酷な真実だ。*