第二百十九弾「スライム使いの少年 その4」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第八章 ギルドマスターの部屋

奥の扉から出てきた男を見た瞬間、
フランは思わず半歩後ずさった。

大きかった。

扉をくぐるとき、
頭をわずかに下げなければならないほどの長身。
肩幅は常人の倍はあろうかという横広な体。
日に焼けた浅黒い肌に、目元と顎に深く刻まれた傷跡。
剃り込みの入った短い黒髪。
そして腰に下げた大剣は、
父のものよりさらに大きかった。

顔つきは、
話しかけることをためらうほど厳めしかった。

その男がフランを見下ろした。

フランの膝が、知らずに震えた。

「お前がスライムを三十二匹連れているガキか」

声も低かった。地の底から響いてくるようだった。

「……はい」

「ついてこい」

それだけ言って、男は階段を上り始めた。
フランは受付の女性を振り返った。
女性は小さく頷いた。
大丈夫、という顔だった。

フランはギルドマスターの背中を追った。

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二階の廊下を進み、一番奥の部屋に通された。

重い木の扉が閉まった瞬間、音が消えた。

街の騒音が消えた。
一階のギルドの喧騒が消えた。
冒険者たちの笑い声も、馬の蹄の音も、
何もかもが、綿で耳を塞がれたように聞こえなくなった。

フランは思わず振り返り、扉を見た。

「驚くな」

ギルドマスターが部屋の隅の棚を指差した。
そこに球形の薄青い石が置いてある。
石の表面に、細かな術式の紋様が刻まれていた。

「音声遮断の結界を張る魔道具だ。
この部屋では知られてはいけない話をすることもある。
外には何も漏れない」

フランは息を吐いた。

部屋は質素だった。
大きな机と椅子、本棚、
そして応接用の長椅子が二脚向かい合わせに置いてある。
窓から街が見えるが、音は届かない。

「座れ」

ギルドマスターが長椅子の一方を顎で示した。
フランは言われた通りに腰を下ろした。
向かいにギルドマスターが座ると、部屋が急に狭く感じた。

「名前はフランと言ったな」

「はい」

「俺はバルドだ。
このランズベルのギルドマスターをやっている」

バルドは机の上に肘をついて、フランを見た。

「単刀直入に言う。魔物を使役できる冒険者は珍しくない。

ただし、普通は二匹か三匹が限度だ。
それ以上になると魔力の消費が激しくなって、
使役を維持できなくなる」

フランは黙って聞いた。

「お前は三十二匹と言った」
バルドは指を一本立てた。

「三十二匹だ。俺がこれまで聞いた最高記録は七匹だ。
それでも当時は伝説扱いされた。
お前は常識を遥かに超えている。
だからこそ直接話を聞きたかった」

フランはこの部屋に呼ばれた理由をようやく理解した。

「他には何ができる」

フランは少し迷ってから、話し始めた。

スライムが色によって異なる能力を持つこと。
鉄色が武器や防具になること。
黄色が衝撃を吸収すること。
水色が水を操れること。
白が冷気を作れること。
赤が熱を持てること。
黒が物を収納できること。

バルドは一言も遮らず聞いていた。

「スライムと感覚を共有することもできます。
今も三十二匹全部とつながっていて、
街の外まで見えています」

バルドの目が微かに動いた。

「同時に、全部と?」

「はい。生まれた時からそうなので、
普通のことだと思っていたんですが……
普通じゃないんですよね」

「普通じゃない」
バルドはゆっくりと繰り返した。

「全部が普通じゃない」

フランは自分がどれほど普通から外れているかを、
この部屋で初めて数えた。
三十二匹の使役。
同時感覚共有。
スライムを武器と防具に変形させること。
スライムを動物に変化させること。
無限収納。
魔法との組み合わせ。

一つ一つは、それぞれが常識を外れていた。

バルドが腕を組んだ。

「東の村から来たと言っていたな」

「はい」

「あっちの方向には、
ガレットという冒険者が住んでいるはずだが……
知っているか?」

フランの頭の中で、何かが崩れた。

ガレット。
父の名前。
この人が、父の名前を知っている。

喉の奥が詰まった。
目の奥が急速に熱くなった。
こらえようとした。こらえられなかった。

気づいたときには、涙がこぼれていた。

「おい」

バルドが前のめりになった。

「どうした、何かまずいことを言ったか」

フランは声が出なかった。
ただ涙が止まらなかった。
旅の間、一度も泣かなかった分が、
一気に溢れ出てくるようだった。

バルドは狼狽していた。
厳めしい顔が、明らかな困惑に歪んでいる。
大剣を持ってどんな魔物とも戦えそうな男が、
泣いている子供の前で
手をどこに置いていいか分からない様子だった。

「あ、いや、その……水でも飲むか」

フランは首を振った。

しばらく時間が経った。

フランは袖で目を拭い、深く息を吸った。
それを何度か繰り返すと、少しずつ声が戻ってきた。

「……ガレットは、俺の父です」

バルドが静止した。

「父だった、が正しいです。もう死んでいます」

部屋の中が静かだった。
音声遮断の魔道具のせいで、外の音は何も入ってこない。
二人の間に、重い沈黙があった。

フランは話し始めた。

言葉が出てくる順番に、話した。

村人たちから疎まれていたこと。
森の中に家を建てて三人で暮らしていたこと。
スライムが集まってきたことに両親が驚いていたこと。
オーガ・キングが現れたこと。
狩人たちが逃げたこと。
父が一人残されたこと。
翌朝、父の隣にオーガ・キングの亡骸があったこと。

母が働き続けたこと。
体が細くなっていったこと。
八歳の秋に逝ったこと。

スライムが母の姿に変わってくれたこと。

獣道を一人で歩いてここまで来たこと。
商人の馬車に乗せてもらったこと。
スライムを見せたら魔族扱いされたこと。

父のような冒険者になりたいと思って、
この扉を開けたこと。

バルドは一度も口を挟まなかった。
腕を組んだまま、ただフランの言葉を聞いていた。
その厳めしい顔が、フランには読めなかった。
怒っているのか、困っているのか、
それとも別の何かなのか。

フランが話し終えると、また沈黙があった。

バルドは窓の外を見た。音のない街が見えた。

それからゆっくりと、口を開いた。

「……俺は昔、
ガレットやマドレーヌと一緒にパーティーを組んでいた」

フランは顔を上げた。

「三人で組んでいた頃は、俺たちは無敵だった。
ガレットは剣の腕が飛び抜けていて、
マドレーヌは薬草と回復魔法で
俺たちを何度も生かしてくれた。
俺は……まあ、力押しが得意だった」

バルドは口の端を少し動かした。
笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。

「三人でSランクにまで上り詰めたとき、
王都のギルドから話があった。
王都のギルド職員にならないかという話だ」

フランは聞いていた。

「ちょうどその頃……俺とガレットは、
どちらがマドレーヌと一緒になるかで争っていた」

フランの心臓が、跳ねた。

「ガレットは俺と同じくらい強かった。
だが俺と違って、あいつは優しかった。
戦いが終わると武器を置いて、普通の男に戻れる男だった。

俺はそれができなかった」

バルドは視線を窓から外さなかった。

「ある日ガレットが言った。
お前がマドレーヌと一緒に王都に行け、と。
自分は魔物に襲われることの多い東の村に行く、と。
俺のために身を引く、という顔をしていた」

フランは何も言えなかった。

「俺は……それを受け入れた。
情けない話だが、受け入れた。
王都に旅立つ日、マドレーヌを迎えに行った。
だが彼女はいなかった。
置き手紙が一枚あるだけだった」

バルドはそこで一度、言葉を切った。

「『ごめんなさい。私はガレットを選びます。
バルドは強いから、一人でも大丈夫』と書いてあった」

部屋の中が静かだった。

「……俺は一人で王都に行った。
ギルド職員になった。
何年か経って、去年この街のギルドマスターになった。
ガレットとマドレーヌが元気でいるかは、知らなかった。
知る方法もなかった。
ただ、どこかの森の中で、
幸せに暮らしていると思っていた」

バルドがフランを見た。

初めて、その目の中にあるものがフランに分かった。

悲しみではなかった。後悔でもなかった。

それは、長い時間をかけて静かになった、
何か深いものだった。

フランの目から、また涙がこぼれた。

今度は声も出た。堪えようとしなかった。

父の知らない話を聞けた。
母の知らない話を聞けた。
二人がSランクの冒険者だったこと。
三人でパーティーを組んでいたこと。
母が父を選んで追いかけていったこと。

フランが知っている両親は、
森の小さな家の中にいる二人だった。
薪を割る父と、薬草を煎じる母。
それだけだった。

でも二人には、フランが生まれる前の物語があった。

「泣いていい」

バルドが静かに言った。

「ここは外に音が漏れない」

フランは泣いた。

泣きながら、両親のことを思った。
父が最後まで逃げなかった理由が、少し分かった気がした。
Sランクまで上り詰めた男が、
どうして村の狩人たちと一緒に討伐に行ったのか。
どうして逃げなかったのか。

それが父だったからだ。
どこにいても、何があっても、
それがガレットという男だったからだ。

しばらくして、フランは顔を上げた。

目が腫れていた。
恥ずかしいとは思わなかった。

バルドは長椅子に背を預けて、
静かにフランを待っていた。

「……俺を、冒険者として登録してくれますか」

フランは言った。

「父みたいな冒険者になりたいんです」

バルドは少しの間フランを見た。
それから立ち上がり、
机の引き出しから一枚の用紙を取り出した。

「登録する」とだけ言った。

それから付け加えた。

「ガレットの息子がSランク以外になるわけがないからな」

フランはもう一度だけ、涙をこぼした。

今度は、笑いながら。

*――第八章 完――*