第二百十六弾「スライム使いの少年」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第四章 旅立ちの朝

荷物をまとめながら、フランは部屋を見回した。

父の大剣。母の薬草棚。
二人の形見が染み込んだ小さな家。
持っていけるものには限りがある。
食料、水袋、薬草、着替え……
それだけでも麻袋はずっしりと重くなった。
これを三日間背負って歩くのか、
と思ったとき、足元でぬるりと何かが動いた。

黒いスライムだった。

普通のスライムより一回り大きく、
表面が深い黒に染まったそのスライムは、
フランが最初に従えたスライムの中でも古株だ。
いつもは物静かに隅にいて、
特別なことをするわけでもなかった。

その黒いスライムが、
フランの荷物の前でぷるりと揺れた。

「……どうした?」

黒いスライムは答える代わりに、
大きく口を開けるように体を広げた。
そして麻袋にゆっくりと近づき、
袋ごと飲み込んだ。

フランは目を丸くした。

「おい、それ俺の荷物……」

だが黒いスライムの体は膨らまなかった。
袋を飲み込んだはずなのに、
体の大きさはまったく変わっていない。
フランが恐る恐る近づいて手を伸ばすと、
黒いスライムは再び体を開き、
麻袋をそのまま吐き出した。
中身は何一つ欠けていなかった。

フランはしばらく黙って黒いスライムを見つめた。

「……もしかして、お前の中に入れておけるのか?」

黒いスライムがプルプルと揺れた。

「どれだけ入る?」

黒いスライムはフランの視線を受けて、
のそりと父の大剣に近づいた。
刃渡り一メートルを超える大剣を、
ためらいなく飲み込んだ。
やはり体は変わらない。

フランは息を呑んだ。

「……無限に入るのか?」

揺れた。肯定するように。

フランは静かに笑った。
笑いながら、少し泣きそうになった。
またこいつらに助けられた、と思った。

「ありがとう」

フランは黒いスライムの頭をそっと撫でた。
黒いスライムはくすぐったそうに身をよじらせた。

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荷物をすべて黒いスライムに預けると、
フランは身一つになった。

身軽だった。
スライムの肌着だけを纏い、
感覚共有の網を周囲に張った状態で、
これほど動きやすい旅支度はないだろう。

出発前に水が飲みたくなった。

水袋を取り出そうとして、
ああ黒いスライムの中か、と気づいたとき、
水色のスライムがすっと前に出た。

水色のスライムは体の一部をコップの形に整えた。
丸みを帯びた、ちゃんとしたコップの形だ。
そしてその中に、
どこからともなく透明な水を満たしていく。

「お前、水を出せるのか……」

さらに、白いスライムが転がってきた。
真っ白な体をぎゅっと凝縮させたかと思うと、
コロンとした氷の粒をいくつかコップの中に落とした。

フランは受け取り、一口飲んだ。

冷たかった。

森の湧き水より澄んでいて、
旅立ちの緊張で乾いた喉に、
その冷水はじんわりと染みた。

「……本当に、助かってる」

フランはスライムたちを見回して言った。

黒いスライム。
水色のスライム。
白いスライム。
鉄色のスライム。
黄色いスライム。
赤いスライム。
緑のスライム。
紫のスライム。
それぞれが違う色をして、
それぞれが違う力を持っている。

鉄色のスライムは体を鋼鉄のように硬化させ、
剣や矢を弾く武器や防具になれる。
オークと戦ったときに右腕に纏った剣は、
この鉄色スライムがいたからこそ作れた。

黄色いスライムは柔らかさの極みだった。
どんな衝撃も吸収し、弾力のある防具になる。
高所から落ちても、
黄色いスライムを全身に纏えば無傷でいられる。
広げれば落下傘にもなり、重ねれば寝具にも椅子にもなる。

旅の夜、地面に寝るときは
黄色いスライムのおかげでぐっすり眠れるだろう。

鉄色の下に黄色を重ねる。
それがフランの完成された防御だった。
外の硬さで刃を防ぎ、内の柔らかさで衝撃を散らす。
どんな金属鎧もこの組み合わせには敵わない。

水色は攻守ともに使えた。
細い水の刃を高圧で放てば岩さえ断ち切る
ウォーター・カッターになる。
足元に噴射すれば跳躍の補助になり、
水平に吹かせれば地面を滑るように高速移動できる。

「みんながいれば、どこへでも行ける」

フランはそう言って立ち上がった。

胸ポケットには、小さな球体になった
マドレーヌのスライムがいる。
黒いスライムは体に張り付くように寄り添い、
他のスライムたちは周囲に散らばって
感覚共有の網を展開した。
頭上にはスライム鷹が飛び立っていく。

フランは東を向いた。

「行こう、ランズベルへ」

## 第五章 街道の洗礼

最初の一日は、拍子抜けするほど穏やかだった。

舗装されていない街道は乾いた土が続き、
時折轍の跡が深く掘れている。
商人や旅人が通った跡だろう。
スライム鷹の目で前方を確認しながら進むと、
危険な場所を事前に把握して迂回できる。
魔物の気配も感知できる。
フランは我ながら、
これほど安全な旅人はいないだろうと思った。

一日目の夜は街道脇の林の中で眠った。

黄色いスライムを広げて寝床を作り、
鉄色のスライムで周囲を薄く囲んで簡単な防壁にする。
感覚共有の網を張ったまま眠れるようになったのは
十歳の頃からで、今では眠りながら
半径五十メートルの動きを把握できる。
魔物が近づけば目が覚める仕組みだ。

快適だった。

森の家で眠るのと変わらなかった。

問題が起きたのは二日目の昼過ぎだった。

---

スライム鷹が前方の異変を捉えた。

街道の先、岩場の陰に複数の人間が潜んでいる。
武器を持っている。
馬もいる。
明らかに誰かを待ち伏せしている。

野盗だ、とフランはすぐに判断した。

普通の旅人なら気づかずに近づいて囲まれる。
だがフランには事前に分かっていた。

どうするか。

迂回するのが一番安全だ。
だが街道を外れると時間がかかる。
それに、この先を通る別の旅人が被害に遭うかもしれない。

フランは少し考えてから、真っ直ぐ進むことにした。

岩場まで五十メートルになったとき、
野盗たちが動いた。
六人。
全員剣を持ち、リーダー格の大男が前に出た。

「荷物と金を置いていけ。そうすれば命だけは助けてやる」

フランは立ち止まった。

「……荷物はないんですよね、実は」

「あ?」

「持ってないんです。本当に。見ての通り手ぶらなので」

野盗たちは顔を見合わせた。
確かに、目の前の少年は何も持っていない。
服だけだ。

「じゃあその服だけでも……ってお前、子供か?」

「十二です」

「一人で旅してるのか、こんな街道を?」

「はい」

野盗のリーダーは眉をひそめた。
金にならない相手だと判断したのか、
あるいは子供一人を相手にするのが馬鹿らしくなったのか。

「行け」と顎をしゃくった。

フランは頷いて歩き出した。

三歩進んで、止まった。

「一つだけ言いますね」

「あ?」

「この先に村があります。
今夜、村の人たちが街に出る予定があります」
フランは淡々と言った。

「もし彼らを襲うつもりなら……俺が困ります」

野盗のリーダーが目を細めた。

「子供が脅しか?」

「脅しじゃないです。お願いです」

「面白い」リーダーが剣を抜いた。

「その度胸、気に入ったが……
なめた口を叩いた罰は受けてもらうか」

六人が一斉に動いた。

フランは動じなかった。

鉄色のスライムが全身を覆った。
黄色いスライムがその下に重なった。
水色のスライムが両腕に集まった。
一秒もかからない。

先頭の男の剣がフランを斬り下ろした。

金属音がした。
刃がスライム・アーマーに弾かれた。

男は目を丸くした。

フランは水色スライムで右腕に水の鞭を形成し、
男の剣を叩き落とした。
続けて左腕から低圧のウォーター・ジェットを
足元に噴射し、素早く後退して囲みを崩す。

六人が六方向から来た瞬間、フランは上に跳んだ。

ウォーター・ジェットを真下に吹かせて
四メートル上昇する。
上空から見下ろすと、
野盗たちが空振りして互いにぶつかっている。

フランは着地しながら、
一人ずつ順番に水の鞭で武器を叩き落とした。
誰も傷つけなかった。
ただ武装解除しただけだ。

六本の剣が街道に転がった。

野盗たちは固まって動けなくなっていた。

「……何者だ、お前」

「ただの旅人です」フランは言った。

「この先の村人たちには手を出さないでください。
次は手加減しません」

それだけ言って、フランは歩き出した。

背後で誰かが「化け物……」と呟くのが聞こえた。
フランは振り返らなかった。

---

その日の夕方、スライム鷹が前方に大きな馬車を捉えた。

幌付きの立派な馬車だ。
御者と、護衛らしき冒険者が二人。
ゆっくりと街道を進んでいる。

追いついたとき、馬車の速度が落ちた。
御者の老人が手を上げた。

「おい、そこの子供。ランズベルへ行くのか?」

「はい」

「乗っていくか? 街まで同じ道だ」

フランは少し迷った。
人と関わることに慣れていない。
だが歩くより速いし、魔物も避けやすい。

「……お願いします」

馬車に乗ると、幌の中に少女がいた。

フランと同い年くらいだろうか。
明るい茶色の髪を二つに結んで、
きれいな水色のワンピースを着ていた。
商人の娘らしく、品のある顔立ちをしていた。

少女はフランを見て、まず服を見た。
それから顔を見た。

「あなた、一人旅?」

「はい」

「すごい。怖くないの?」

「慣れてます」

少女はころころと笑った。

「私はシュー。
父が商人で、ランズベルに仕入れに行くの。
あなたは?」

「フランです。冒険者になりに行きます」

「冒険者!」シューの目が輝いた。

「かっこいい! 強いの?」

「……まあ、それなりに」

シューは話し好きだった。
街のこと、ランズベルのギルドのこと、
有名な冒険者の噂話。
フランはほとんど聞く側だったが、
知らないことばかりで興味深かった。

夕暮れ時になって、馬車が川沿いに停まった。
今夜はここで野営するという。

焚き火を囲んで食事をしながら、
シューはふと首をかしげた。

「ねえ、フラン。
さっきから……何か、あなたの周りにいない?」

フランは動きを止めた。

スライムたちは普段、目立たないようにしている。
服に溶け込んだり、影に紛れたりしている。
だがシューは鋭かった。

「何が?」

「何か……透明なものがぷるぷるしてる。
気のせいかな」

フランは少し考えた。

隠し続けることもできる。
だが、それは嘘をつくことに近い。
シューは良い子だと思った。
打ち明けても大丈夫かもしれない。

「……見せてもいいですか。
驚かないでほしいんですが」

「何を?」

フランが手を伸ばすと、
服の袖の中に潜んでいた小さなスライムが
手のひらに乗ってきた。
透明な、プルプルとした小さな塊。

シューは目を凝らした。

「……何これ?」

「スライムです」

「え」

「魔物です。でも仲間です」

シューの顔が、みるみる変わっていった。

最初は驚き。
次に困惑。そして……恐怖。

「……スライム」シューは後ずさった。

「魔物を……手に乗せてる?」

「大丈夫です、害はないです。俺の仲間で」

「魔物を仲間に……」
シューの声が震えていた。

「あなた……普通の人間じゃない」

「人間です」

「人間が魔物と仲良くなんてできない! 
あなた、魔族なんじゃないの!?」

フランは何も言えなかった。

シューは立ち上がり、馬車の方へ駆けていった。

「お父さん! お父さん、
あの子魔族よ! 魔物を手に乗せてた!」

焚き火の向こうで、御者の老人が振り返った。
護衛の冒険者二人も立ち上がった。

フランはゆっくりと立った。

「待ってください、俺は」

「お前、魔族か」

護衛の一人が剣を抜いた。
三十代の厳つい男だ。

「魔物を使役するなど、
普通の人間にできることじゃない」

「俺は人間です。生まれた時からスライムと」

「問答無用だ」

二人の冒険者が同時に動いた。

フランは瞬時にスライムアーマーを展開した。
鉄色と黄色が重なり、全身を覆う。
剣が弾かれた。
だが二人は手練れで、連携が取れていた。
一人が正面から押さえ込み、もう一人が背後に回る。

フランは水色スライムのジェット噴射で横に跳んだ。

「俺は戦いたくない!」

「黙れ!」

剣が振り下ろされた。
フランは体を低くして躱し、水の鞭で剣を弾く。
だが二人同時は厳しかった。
一撃が肩を掠めた。
スライムアーマーが衝撃を吸収したが、押される。

シューがその場に立って見ていた。

フランはその目を一瞬見た。

恐怖の目だった。

自分を見る目が、あの目だった。

*魔族。化け物。普通じゃない。*

それはずっと知っていたことだ。
村人たちの視線の中にも、同じものがあった。
慣れていたはずだった。

なのに、胸の奥が痛んだ。

シューは良い子だと思っていた。
話していて、楽しかった。

フランは奥歯を噛んで、森の方向へ走った。

水色スライムのジェットで一気に加速する。
冒険者二人が追うが、追いつけない。
暗い木立の中に飛び込み、
感覚共有の網で追手の位置を確認しながら深く、
深く森の中へ入っていった。

やがて追ってくる気配が消えた。

フランは大きな木の根元に座り込んだ。

スライムたちが集まってきた。
マドレーヌのスライムが胸ポケットから出て、
フランの頬に体を押し当てた。

フランは俯いた。

「……大丈夫だ」

声が少し掠れていた。

「慣れてる。こういうのは」

スライムたちが静かにフランの周りを囲んで揺れていた。

嘘だと、分かっているように。

フランは膝を抱えて、長い間そうしていた。
夜の森は暗く、木々の間から星が見えた。
虫の音が聞こえた。遠くで梟が鳴いた。

*魔族じゃない。*

*俺はただ、スライムと仲良くなっただけだ。*

*それの何がいけないんだ。*

答えは出なかった。
答えが出ない問いだと、薄々分かっていた。

どれだけ時間が経ったか。

マドレーヌのスライムが、そっとフランの手に乗った。
温かくもなく冷たくもない、不思議な感触。
でもその感触が、ずっと昔から知っているものだった。

フランは深く息を吸った。

「行こう」

立ち上がった。

膝の土を払い、
スライム鷹を飛ばして街道の位置を確認する。
馬車はもう遠くに行っていた。

ランズベルはまだ先だ。

フランは歩き出した。
星明かりの森の中を、
スライムたちと一緒に、東へ向かって。

胸の痛みはまだあった。
でもそれは、歩くたびに少しずつ、
足音の中に溶けていった。

*――第五章 完――*