最初は普通の恋愛話を作っていたのですが

途中からなんかありふれてて嫌だな

って思って方向転換しちゃいました

 

 

 

# 図書室の魔女と、しゃっくりの魔法使い

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## 第一章 貸出カード

放課後の図書室は、いつも静かだった。

時計の秒針が刻む音と、
ページをめくる乾いた音だけが漂う、
その場所が、二年三組の水瀬(みなせ)ことは にとって、

学校でただひとつ息のできる場所だった。

司書の先生からは
「ことはちゃんは当番以外でも来てくれるから助かるわ」
とよく言われた。
べつに誰かの役に立ちたいわけではなかった。
ただここにいると、
クラスで感じるあの息苦しさがなかった。
自分が目立たないことも、眼鏡が古くさいことも、
誰とも輪になれないことも、
棚に整然と並んだ背表紙たちは何も言わなかった。

その日も閉館の十五分前から、
ことはは返却カウンターで当番をしていた。

「……もうそろそろかな」

蛍光灯の下で利用者名簿を確認していると、
扉がさっと開いた。

「まだ大丈夫ですか? これ、今日が返却期限で」

声と同時に差し出された本を、ことはは受け取った。

そして固まった。

タイトルを確認するまでもなく、
その本には見覚えがあった。
暗緑色の布張りの表紙。
金の箔押しで刻まれた外国語のタイトル。
国内で翻訳版の出ていないその海外小説は、
学校の図書室にはほとんど借り手がなく、
貸出カードに並ぶ名前はたった三つしかなかった。

司書補佐の先生の名前。
水瀬ことは。
そして——

ことはは顔を上げないようにしながら、
棚からカードを抜いた。

三つ目の名前は、確かに読んだ覚えがある。

*神崎陽向(かんざきひなた)*

知らない人間は、おそらくこの学校にいない。
三年生、サッカー部キャプテン。
全国大会常連校のエースで、しかも性格がいい。
後輩の面倒見がよくて、同級生には頼られて、
先生にも信頼されている。
廊下を歩けば女子が振り返り、
男子でさえ自然と目で追う。

ことはにとって彼は「別次元の人」だった。

見かけたことはある。
でもそれだけだ。
同じ空間に存在することはあっても、交わる線分ではない。
そう思っていた。

「…………はい、確認できました。
ありがとうございました」

なるべく顔を見ないようにして、
ことははスタンプを押した。

「助かりました。ありがとうございます」

爽やかな声と、爽やかな足音が遠ざかっていく。

ことはは一人になってから、
ようやくカードをもう一度見た。

*神崎陽向*

その名前を、静かにしまった。

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翌日、
ことはは当番ではなかったが、午後の図書室に来ていた。

理由は、昨日の本だった。

棚に戻す前に、ことはは少しだけ迷って、
自分でその本を借りることにした。
以前一度読んだことがある。
でも、あの人も同じ本を読んでいた。
それだけのことが、
何故か小さなとげのように引っかかっていた。

窓際の席で本を開いていると、横から声がした。

「あ……その本、僕も読んだことあるよ」

ことはは心臓が止まるかと思った。

見上げると、神崎陽向が立っていた。

制服のネクタイを少し緩めて、
サッカー部の練習帰りなのか頬にわずかに血色がある。
こんなに至近距離で見たのははじめてで、
ことはの顔は耳まで赤くなった。

「も……もしかして、また本を借りに来ましたか」

我ながら精一杯の言葉だった。

神崎は少し目を細めて、
ことはの手元の貸出カードを見た。

「もしかして……君が、この本の最初の名前の人?」

ことはが小さく頷くと、
神崎は少し嬉しそうな顔をした。

「そうか。僕が借りる本はいつも君が先に借りてたから、
気になってたんだよね。 会えてよかった」

その言葉が、ことはの耳の奥でゆっくりと広がった。

*気になっていた。*

自分の名前が、あの人の視界にあったという事実が、
信じられなかった。
嬉しいというより、恥ずかしかった。
顔がいっそう赤くなって、
ことははなんとか「……そうですか」
とだけ言うのが限界だった。

それからだった。

図書室で神崎と顔を合わせることが増えた。
ことはが窓際で本を読んでいると神崎が来て、
棚の前でばったり遭うこともあった。
彼は必ず声をかけてきた。
読んでいる本のこと、作家のこと、
翻訳と原著の違いのこと。
話題はいつも本で、神崎は聞き上手だった。

ことはは慣れなかった。

何度会っても、声をかけられるたびに喉が緊張して、
返事が上ずった。
それでも神崎は特に気にした様子もなく、
静かに話を続けてくれた。

——あの人は、本当に本が好きなんだ。

ことはがそう確信した頃、
放課後の廊下で名前を呼ばれた。

振り返ると、三人の女子が立っていた。
いずれもことはより背が高く、
制服の着こなしが洗練されていた。
笑顔だったが、目が笑っていなかった。

「ちょっと来て」

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## 第二章 呼び出し

連れていかれたのは、校舎裏の非常階段の踊り場だった。

「あなた、神崎先輩とよく話してるよね」

一番前に立った女子が言った。
ことははその子のことを知っていた。
三年生の取り巻きで、
神崎と同じクラスだという話を聞いたことがある。

「馴れ馴れしくしないでもらえる? 先輩がかわいそう」

「図書委員だからって調子乗らないでほしいんだけど」

「先輩だってお世辞で話してあげてるだけに
決まってるじゃん」

言葉は次々と積み重なった。
ことはは黙って聞いていた。
反論する言葉も、感情もなかった。
ただ、ここを早く終わらせたかった。

「……すみません。気をつけます」

それだけ言って頭を下げた。

帰り道、ことはは誰とも話さなかった。

*彼に迷惑をかけたくない。*

それだけを考えていた。

翌日から、それははじまった。

登校するとロッカーに落書きがあった。
机に「キモい」と書かれていた。
体育の時間に体操服を隠された。
廊下を歩いていると囲まれて、
小さな声でいろいろなことを言われた。

クラスメイトは誰も何も言わなかった。

ことははそれを責める気にもなれなかった。
もし誰かが助けようとすれば、
次はその子が標的になる。
それがわかっているから、
みんな見ないふりをしているのだ。
これは自分の問題だ、と思った。

それでも図書室では、
ことははいつも通りに神崎と話した。

彼に知らせても何の解決にもならない。
彼を困らせたくなかった。

ただ、その態度が彼女たちには
腹立たしかったらしかった。

「反省してないじゃん」

「調子乗ったままじゃん」

ある放課後、いつもより多い人数に囲まれた。

最初は言葉だけだった。でもその日は、違った。

最初の一発は、腕に当たった。

次は背中だった。

ことはは壁際に追い詰められ、
防ぐことも逃げることもできなくなった。
足に力が入らなくなり、その場にしゃがみこんだ。

頭上から腕が振り下ろされようとした、その瞬間だった。

——ひっく。

静寂の中に、間の抜けた音が響いた。

「え……」

殴ろうとしていた女子が、
きょとんとした顔で自分の口を押さえた。

——ひっく。ひっく。

止まらなかった。むしろ激しくなった。

「大丈夫?」

「ちょっと、どうしたの?」

周りの注意が一気にそちらに向いた。
ことはのことなど、誰も見ていなかった。

呆然としていることはの手を、誰かが掴んだ。

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## 第三章 眼鏡の男子

「今のうちに逃げよう」

引っ張られるままに走った。

廊下の角を二つ曲がり、
人気のない渡り廊下に出たところで、手が離れた。

「急に掴んでごめん。怖かったでしょ」

振り返ると、眼鏡の男子生徒がいた。

ことはと同じくらいの背丈で、地味な色のカーディガン。
制服の着こなしに気を遣っている様子はなく、
髪も特に整えていない。
目立たない、
という言葉がそのまま人になったような印象だった。

クラスはたぶん隣か、そのあたりだと思う。
でも名前は知らなかった。

「……助けてくれてありがとう」

ことはが言うと、彼はわずかに目を伏せた。

それからの数日は、奇妙だった。

ことはに近づこうとする人間は、
必ずしゃっくりに見舞われた。
廊下で囲もうとした三人が、
示し合わせたようにそろって発症した。
教室で因縁をつけようとした女子は
授業中にしゃっくりが止まらなくなって
保健室に連れていかれた。

「水瀬って、もしかして……呪ってる?」

そんな声が聞こえるようになった。

野次馬がわざわざ図書室を覗きに来るようになった。
「図書室の魔女」という二つ名がいつの間にかついた。
ことはは呆れるより先に疲れた。
呪いなんて知らない。
しゃっくりの発生源も自分ではない。
でも何も言わなかった。

放課後、
例の眼鏡の男子から折り畳んだメモが渡された。

*話がしたいです。
放課後、駅前の喫茶店〈ハコニワ〉で待っています。
——橘賢人(たちばなけんと)*

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木製の扉を押すと、コーヒーの香りがした。

橘賢人は奥の窓際の席にいた。
ことはが向かいに座るなり、
彼は立ち上がって頭を下げた。

「謝らせてください」

ことははメニューも見ていなかった。

「どうして謝るんですか」

橘は座り直して、ゆっくりと言った。

「あのしゃっくりは……僕がやっていました」

沈黙。

「他人にしゃっくりをさせて、
任意の時間だけ続けさせることができるんです。
おかしいですよね。
役に立つとは言えない能力で」

ことはは思わず少し笑ってしまった。

「……確かに」

橘はわずかに表情を緩めてから、
また真剣な顔に戻った。

「君が神崎先輩のせいで
虐めを受けていることは知っていました。
君が先輩をかばっているのも。
でも、今回の件を最初から仕組んでいたのは
——先輩本人なんです」

ことはは、言葉の意味をしばらく処理できなかった。

「……え?」

「以前にも同じことがありました」

橘の声は静かだった。

「先輩と親しくなった女子が、
取り巻きに虐められて
——最終的に学校に来られなくなった。
その子は今も不登校のままです」

橘は窓の外を少し見た。

「その子は、僕の幼馴染でした」

その横顔の、かすかな痛みを、ことはは見ていた。

「……神崎先輩は、自分から女子に近づいて、
特別扱いしているように見せる。
そうすると必ず取り巻きが動く。
先輩本人は何もしていない。
でも結果として、近づいた女子がひどい目に遭う」

「どうして……そんなことを」

橘は首を振った。
「理由はわかりません。
でも、わかれば止められたかもしれない。
あのとき、僕は何もできなかった」

コーヒーカップの縁を見つめながら、彼は言った。

「神社で、彼女がもとの笑顔に戻れるように
って祈りました。
能力が出たのは、その後です。
最初は使い方もわからなかったけれど
——また同じことが繰り返されているのを見て、
今度は止めたいと思ったんです」

窓の外を路面電車が通り過ぎていった。

ことははしばらく何も言えなかった。
あの爽やかな笑顔が、脳裏に浮かんでは消えた。
貸出カードの三番目の名前。
「会えてよかった」という言葉。
あれは全部——

「……ありがとう」

ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

橘は目を丸くした。

「怒らないんですか」

「怒ってる」ことはは言った。

「でも今は、ちゃんと教えてくれたあなたに、
まずお礼を言いたかった」

橘は少しの間、困ったような顔をしていた。
それからぽつりと言った。

「……君は、変わってますね」

「よく言われます」

橘がかすかに笑った。
眼鏡の奥の目が、少し細くなった。

それが、
橘賢人がはじめてことはの前で見せた笑顔だった。

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## 終章 図書室の住人たち

翌週から、ことはへの虐めはぱたりと止んだ。

「図書室の魔女」の噂はしばらく残ったが、
実害がなければ噂は噂で終わる。
神崎陽向が次に近づいた女子は、
事前に橘から警告を受け、上手く距離を置いた。
それ以上のことは、ことはには知らされなかった。

放課後の図書室に、新しい顔ぶれが一人増えた。

地味なカーディガンの、眼鏡をかけた男子が、
窓際のことはの斜め向かいに座るようになった。

最初は何も話さなかった。
お互いに本を読んでいた。

ある日、
ことはが橘の読んでいる本の背表紙を盗み見て、
小さな声で言った。

「それ、私も読んだことあります」

橘は顔を上げた。

「……どうでした?」

「三章の途中で一度閉じました」
ことはは正直に言った。

「でも最後まで読んでよかったと思った」

橘はしばらく考えてから、本に栞を挟んだ。

「三章の、どこで閉じましたか」

それから二人は、閉館の時間まで話していた。

蛍光灯の白い光の下で、
棚に並んだ背表紙たちが静かに聞いていた。

時計の秒針が、いつもと変わらない音を刻んでいた。

図書室は、静かだった。

ただ、
前とは少しだけ違った種類の静けさだった。

---

*了*