第百八十四弾「 足がつる程度のこと」の続きです

 

 

# 足がつる程度のこと ― 続章 ―

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## 第五章 使う理由と、使わない理由

本を読み過ぎて夜更かしをしてしまったせいで
朝の目覚めが遅れ、
いつもより一本後の電車に乗る事になった。
だから蓮は眠い目をこすりながら、
乗り慣れていない時間帯のホームへの階段を上っていた。

後ろから轟音のような足音が来たのは、
階段の中ほどにさしかかったときだった。

振り返る間もなく、背中に衝撃が来た。

蓮の身体が前に飛んだ。
左足が空を踏んだ。
階段の手すりに辛うじて指が引っかかり、
体重がそこに集中して肩が痛んだが、落ちなかった。

「っ……」

上から見下ろすと、スーツ姿の三十代くらいの男が、
蓮を押しのけた勢いのまま階段を駆け上がっていった。
謝りもしない。
振り返りもしない。
革靴の音だけが響いて、男はそのままホームに消えた。

蓮は息を整えながら手すりを握り直した。
肩が痛い。
手が痺れている。

階段を上りきってホームに出ると、男はまだ走っていた。
ホームにいた人々が驚いて避けていた。
老人が杖を取り落としそうになり、
学生が鞄を吹き飛ばされた。

そして——ホームの端近くで、
赤ん坊を抱いた女性に男がぶつかった。

女性の身体が回転して、膝をついた。
赤ん坊の泣き声が、ホームに鋭く響き渡った。

周囲の人間が一瞬固まり、
そして我に返って女性に駆け寄った。
赤ん坊は——泣いている。
泣いているということは、息をしている。
無事だ。
女性も、顔を歪めながらも赤ん坊をしっかり抱いていた。

男は電車のドアに手を伸ばしていた。
閉まりかけのドアを、強引にこじ開けようとしていた。

蓮は男を見た。

足よ、つれ。

男の右足が止まった。
「うわっ」という声と共に、
男はホームの床に倒れ込んだ。
電車のドアが静かに閉まった。

男は足を押さえながら悪態をついた。
「なんで今! くそっ、なんで今つるんだ!」

舌打ち。
怒号。
周囲への剥き出しの八つ当たり。
電車が走り去る音にかき消されながら、
男の罵声だけがホームに残った。

蓮は男を見ながら、思った。

反省している?

していない。
一ミリも。

足よ、もう片方もつれ。

男は今度こそホームで転げ回った。
「いっっ……! なんで両足! なんで!」

周囲でクスクスという笑いが起きた。
「自業自得じゃん」と吐き捨てる女子高生の声がした。
誰も助けに行かなかった。
赤ちゃんを抱いた女性に駆け寄っていた人々は、
チラリとそちらを見て、また女性の方へ向き直った。
優先順位が正しかった。

蓮は男から視線を切った。

行いを反省しない相手には何度使っても意味がないことは、
分かっている。
でも。

使わないよりはましだ。

少なくとも今日この瞬間、
あの男はあの電車には乗れなかった。
それだけでいい。

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駅を出て学校への道を歩きながら、
蓮は少し自分の中を点検した。

最近、能力を使う回数が増えている。

詩乃と友人になってから、
しばらくの間は不思議と使わずにいられた。
世界との摩擦が減ったような、
自分の中の棘が少しなめらかになったような
感覚があった。
あの夏。

でも秋になり、冬が来て、
また日常が積み重なっていくうちに、
使う機会は戻ってきた。

駅の階段を走り下りる人、
歩きスマホで人の流れを塞ぐ人、
電車の中で音を垂れ流す人、
横断歩道を渡り切った歩行者に向かって
ぶつかりそうに走り抜けていく自転車——

悪意のある人間ばかりではない。
ただ無頓着な人間の方が、むしろ多い。

蓮は使う基準を自分なりに決めていた。

誰かが実際に傷つきそうなとき。
あるいはすでに傷ついたとき。
それだけだ。
むやみに使うつもりはなかった。
でも世界は予想以上に、
その基準を頻繁に超えてきた。

そして、もう一つ気をつけていること
——倒れた相手が、周囲の人間を巻き込まないこと。

今朝の駅で、それをやや読み違えた。

男がホームで転げ回ったとき、
周囲の人間に当たらなかったのはただの運だった。
もう少し人が密集していたら、
転倒の余波で誰かが怪我をしていたかもしれない。

蓮はそれを考えながら、少しだけ気分が重くなった。

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学校の正門を抜けて昇降口の手前にさしかかったとき、
蓮はその光景を見た。

クラスメイトの男子
——確か中西という、蓮と同じく
クラスの端にいるタイプの人間——が、
隣のクラスの羽田に腕を掴まれていた。

羽田。

その名前を蓮は何度か、意識の片隅に刻んでいた。

成績優秀、部活動でも実績があり、教師受けがいい。
保護者もPTAで顔が利くらしい。
学校の中では絵に描いたような優等生で通っている。

でも教師の視野の外では別の顔があった。

標的を決めたら長く、陰湿に、証拠を残さない方法でやる。

直接手を出すのは最初の一度だけで、
あとは心理的に締め上げる。
教師に訴えられないように、
周囲の人間も共犯にして口を塞ぐ。

蓮はこれまでに何度か、
羽田が中西に何かをしている場面を目撃していた。
そのたびに能力を使った。
羽田は「なんか最近やたら足がつるな」
とぼやいているらしい。
でも原因に気づく様子はない。

そして今日も——

足よ、つれ。

羽田が短く声を上げて膝をついた。
中西が驚いて羽田を見下ろした。
羽田は舌打ちをしながら足首を押さえ、
「……先行ってろ」と吐き捨てた。

中西はそのまま昇降口へ向かった。
羽田を振り返らなかった。

蓮は何事もなかったように昇降口に向かおうとした。

そのとき、横から走ってきた人間が——

「わっ!」

衝撃とともに誰かが前に転んだ。
羽田がうずくまっていた位置に
人が突っ込んでしまったのだ。

蓮は反射的にしゃがんで肩を貸した。

「大丈夫ですか」

「あー……ごめん、
急に転んでる人がいると思わなくて止まれなくて!」

顔を上げると、陸上部のジャージを着た女子生徒だった。
クラスメイトだ。
確か長距離をやっている。
走ってくる足音が聞こえなかったのは、
蓮が完全に羽田に集中していたせいだった。

膝に血が滲んでいた。

「大丈夫?」蓮は思わず言った。
予期しない衝突だった。

「人が多い場所で走ると、こういうことになるから」

言ってから、説教みたいに聞こえたかと思ったが、
彼女は「そうだね~、完全に私が悪い!」
と笑いながら立ち上がった。

「保健室、行った方がいいと思います。
擦り傷、消毒した方がいい」

「そうする。ありがとね」

彼女は手を振って昇降口の方へ歩いていった。
走らずに。

蓮はその背中を見送って、深く息を吐いた。

軽い怪我でよかった。

でもよかった、じゃないのだ。

あそこに羽田がいなければ。
羽田がうずくまっていなければ。
彼女は転ばなかった。

羽田を足をつらせたのは蓮だ。
そして蓮は羽田の転倒が周囲に被害を与えないか、
確認が甘かった。

自分が使った能力が、関係のない人間を傷つけた。

それは——初めてのことだった。

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## 第六章 能力の重さ

昼休みの図書室。

詩乃がいつもの席に座って本を開いていたが、
蓮が座った瞬間に顔を上げた。

「なんか顔色悪い」

「そうですか」

「うん。眠い感じじゃなくて、考えすぎた感じ」

蓮は鞄から弁当を取り出しながら言った。
「……今日、少し失敗した」

詩乃は本を閉じた。

蓮は、朝の駅での出来事と、
昇降口での出来事を順番に話した。
能力を使った理由も、その結果も、
陸上部の女子が転んだことも。

詩乃は黙って聞いていた。

「……能力を使った結果、関係ない人が怪我をした、
ということ?」

「直接は違います。
羽田が転んでいた場所に、たまたまぶつかっただけです。
でも羽田を転ばせたのは僕なので」

詩乃はしばらく考えてから言った。
「蓮は悪くないと思う」

「そうは言い切れないです」

「じゃあ、
羽田が中西に何かしているのを放っておいたら?」

「……中西が傷つきます」

「能力を使ったことで、中西は助かって、
陸上部の子は軽い擦り傷を負った。
能力を使わなかったら、中西はまた削られていった。
どっちが正解か、私には分からない」

蓮は卵焼きを一口食べた。味がよくわからなかった。

「でも」と詩乃は続けた。

「蓮が悩んでいる理由は分かる。
自分の行動の結果を、
ちゃんと引き受けようとしているから」

「引き受けているんじゃなくて、
引き受けきれていないから悩んでいるんです」

「それが引き受けようとしている、
ってことじゃないの」

蓮は何も言えなかった。

窓の外で風が木の枝を揺らした。
光が棚の背表紙の上を流れた。
いつもと同じ景色だった。

「一つだけ聞いていい?」詩乃が言った。

「何ですか」

「蓮はその能力を、これからも使うつもり?」

蓮はしばらく考えた。

「……使うと思います。
使わずにいられる場面と、そうでない場面がある。
今朝の駅みたいに、赤ちゃんを抱いた人が倒れたら
——もう考える前に使っています」

「それでいいんじゃないかな」

「でも今日みたいな失敗が」

「また気をつければいい。
使い続けながら、精度を上げていけばいい」

詩乃は少し間を置いて言った。

「蓮の能力って、正義の味方には全然向かないけど、
でも日常の中でこっそり誰かを守るのには向いてる。
向いてるものを、向いてる使い方で使えばいいと思う」

蓮は詩乃を見た。
詩乃は真顔だった。
冗談で言っているわけではないことは分かった。

「……あなたは、僕の能力を肯定しすぎです」

「肯定しているんじゃなくて、
君を信頼しているだけだよ」

今度こそ蓮は黙った。

少し、耳が熱くなった。

弁当の卵焼きが、さっきより美味しく感じた。

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その日の放課後、
蓮は昇降口を出たところで陸上部の彼女
——垣内 ひなた、という名前を
今日初めてちゃんと認識した
——に呼び止められた。

「あ、朝の人! 
保健室行ってきたよ、ちゃんと消毒した」

「それはよかったです」

「擦り傷くらいで
保健室行くの恥ずかしいかと思ったけど、
先生がいい人でよかった。
ちゃんと膝洗ってくれた」

「それは何よりです」

垣内は少し笑ってから
「今日転んだの、あそこで転がってた
羽田のせいだと思ってたんだけど」と言った。

蓮の胃が一瞬縮んだ。

「でも羽田のやつ、いつも人のせいにする感じ嫌いだし、
自分が走ってたのも悪いし。
いいや、って感じ」

「……そうですか」

「うん。それより」垣内は蓮を見た。

「あなたって桐島くんだよね。確か同じクラスの」

「そうです」

「本読んでる人、って印象しかなかったけど、
今朝けっこう冷静に助けてくれたよね。
保健室行けって言ってくれたのも。
ありがとう」

「別にたいしたことは」

「たいしたことあるよ。
転んでパニックしてるとき、
冷静に次の行動を言ってくれる人って助かるから」

それだけ言うと、
垣内は「またね」と手を振って走り去った。
今度は人の少ない方向に向かって。

蓮はその背中を見送った。

自分の能力が、彼女を転ばせた。
そして自分の言葉が、彼女を保健室へ向かわせた。
プラスとマイナスが、
今日のところはどうにか釣り合っている気がした。

完璧ではない。

でも——足がつる程度の能力には、
足がつる程度の責任を持てばいい。

それくらいのことなら、できるかもしれない。

蓮はそう思いながら、夕暮れの中を歩き出した。

鞄の中でスケッチブックが揺れた。
今夜は何を描こうか、と考えながら。

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*続く*