久しぶりに音楽ものを作りたいな

って思って考えたものです

今までは歌う人をメインにした

音楽ものだったので

今回は作曲者側にしてみました

 

 

# 声の彼方に

---

## 第一章 引き籠もりの作曲家

世界は、ヘッドフォンの中だけでいい。

瀬川奏(せがわかなで)は
そう信じて二十六年間生きてきた。

六畳の自室に置かれた机の上には、
三枚のモニターが並んでいる。
一番左には波形が踊るDAWソフト。
中央には鍵盤が並ぶMIDIコントローラー。
右端には投稿サイトの管理画面。
それが奏の全宇宙だった。

部屋のカーテンは一年中閉まっている。
陽光は必要ない。
必要なのは、音だけだ。

ボーカロイド楽曲「ガラス越しの君へ」が
再生回数一千万回を突破した日も、
奏はヘッドフォンをしたまま
次の曲のメロディーラインを弄っていた。
通知バッジが赤く光っていたが、
それよりも今浮かんでいるコード進行の方が大事だった。

人と話すのが怖い。

正確に言えば、怖いというより
——何をすればいいか、まったく分からない。
スーパーのレジでさえ財布を出す手が震えた。
だから今は食料もネットで注文する。
宅配ボックスに届いたものをこっそり取りに行く。
それだけで一日分の体力を使い果たした。

母が死んだのは奏が五歳のときだ。
記憶の中の母は、いつも何かを弾いていた。
ピアノだったか、ギターだったか。
その音だけははっきりと覚えている。
父は研究者で、奏が物心ついた頃には
もうヨーロッパのどこかにいた。
年に一度、誕生日にメールが届く。
それで十分だと、二人とも思っているようだった。

奏を育てたのは、祖父
——瀬川建三郎(せがわけんざぶろう)だ。

瀬川グループの会長。
数千億円規模の複合企業の頂点に立つ男が、
孫の誕生日にはわざわざ都内のマンションまで来て、
ドアの前でインターフォンを押す。
奏が出なくても、
「いるんだろう。元気か」
と一言だけ言って帰っていく。
それを十五年間続けていた。

二十歳のとき、祖父は奏に渡してきた。

「これはお前のものだ」

書類の内容は、
今住んでいる高層マンションの一室の登記証だった。

「いらな——」

「いらんとは言わせん」

祖父の声は低く、しかし柔らかかった。

「お前が世の中と関わる準備ができるまで、待つ。
それだけだ」

奏はそれ以来、そのマンションで一人で暮らしている。
生活費は祖父の会社の経理部門が管理していた。
最初は小遣い程度だったが、
楽曲の収益が膨らむにつれて、
いつの間にか「瀬川グループ クリエイター支援部門」
という一部署になっていた。
年収が一千万円を超えたと、
メールで通知が来たときも、
奏は「そうなんだ」とだけ返信した。

金は使い道がない。
使い道がないから貯まる。
貯まっても何も変わらない。

変わらない毎日が、奏にとっての安心だった。

---

## 第二章 声

彼女が初めてやってきたのは、三年前の春だった。

インターフォン越しに聞こえてきたのは、
落ち着いた、低めの女性の声だった。

「瀬川奏様のお宅でしょうか。
建三郎様のご依頼で、定期清掃に伺いました、
宮代と申します」

奏は自室のドアを少しだけ開け、
廊下の先に気配があるのを確かめてから答えた。

「……どうぞ」

それだけ言って、すぐにドアを閉めた。

清掃の間、
奏はヘッドフォンをつけて音楽を作っていた。
人が家にいる。
それだけで背中がざわつく。
気配を感じるたびに手が止まった。

一時間ほどして、また声がした。

「終わりました。
何かご不便な点があればお申し付けください」

返事をしなかった。できなかった。

しかし彼女はまた来た。
月に二回、きっかり決まった曜日に。
そのたびに奏は自室に閉じこもり、
彼女が帰るまで出てこなかった。

最初の一年、
奏は彼女のことを何とも思っていなかった。
人が来る。
気配がする。
それがストレスだというだけで、
相手が誰かなど関係なかった。

変化が生まれたのは、二年目の秋だった。

その日、奏は行き詰まっていた。
三週間かけて作り続けていた楽曲のサビが、
どうしても納得できなかった。
何度試しても、何かが足りない。何かが
——と考えながら、ぼんやりとキーボードを叩いていると、
廊下の方から声が聞こえてきた。

彼女が、鼻歌を歌っていた。

ほんの数小節。
掃除機をかけながらの、無意識の鼻歌だろう。
メロディーに歌詞はない。
ただの「ふふふん」という音の断片。

奏の指が止まった。

その声の中に、
奏が三週間探し続けていた「何か」があった。

メロを取り出す間もなく、
奏はそれを耳の中で反復させた。
D♭メジャー。
少し翳りのある、しかし芯の通った声。
高くもなく低くもなく、
まるで秋の夜気のように落ち着いた響き。

翌日、奏は一気にサビを書き上げた。

「月光のプロトコル」は
投稿から二週間で再生回数五百万回を突破した。
コメント欄には「このサビで泣いた」
「どこかで聴いたことあるような懐かしさがある」
という声が溢れた。

奏だけが知っていた。
あのサビは、彼女の鼻歌から生まれたのだと。

それから奏は、彼女の声を待つようになっていた。

掃除の日が近づくと、なぜか少し早起きになった。
彼女が廊下を歩く音。
窓を開ける音。
時折、電話で短く話す声。
その全部を、ヘッドフォンを外して聴いていた。

彼女はたまに独り言を言った。

「あ、ここ汚れてる」

「今日は風強いな」

「……奏様、今日も作曲してるのかな」

最後の一言は、まるで独り言のような、
しかし少しだけ廊下に向けた声だった。

奏はドアのすぐ内側で、息を殺してそれを聴いていた。
心臓がうるさかった。

---

## 第三章 顔

一度だけ、見ようとしたことがある。

彼女が来てから二年と三ヶ月が経った、
ある冬の昼下がりのことだった。

その日の彼女はいつより少し早く来た。
奏はちょうど曲が一段落していて、
めずらしくぼーっとしていた。
廊下で掃除をする音がして、
それがリビングに移ったとき、奏は思った。

——今なら。

そっとドアノブを掴んだ。

冷たい金属の感触。
心臓の音が耳の中で反響する。
掌が汗ばむ。

リビングまでの距離は、たったの十メートルだ。
廊下を歩いて、角を曲がれば、そこにいる。
三年間声だけを聴き続けた彼女が、そこにいる。

——どんな顔をしているんだろう。

ドアノブを、五センチだけ回した。

隙間から、廊下の白い壁が見えた。
あと一歩。あと一歩出れば——

掃除機の音が止まった。

静寂。

「……」

奏はドアノブから手を離し、後ずさりした。
壁に背中がついて、そのままずるずると座り込んだ。

心臓が痛かった。
足が震えていた。
吐き気がした。

——無理だ。

分かっていた。
でも確かめたかった。
分かっているのに確かめられなくて、また分かる。
そのループが奏の三年間だった。

結局、彼女の顔は見えなかった。

掃除が終わって、
彼女が帰り際に言った言葉だけが残った。

「お疲れ様です、奏様。
今日も良い曲、作れるといいですね」

奏はドアの内側で、小さく息を吸った。

「……ありがとう」

声に出たかどうか、分からなかった。

---

## 第四章 Xデー

それは春の初めに来た。

清掃の日とは別の曜日に、インターフォンが鳴った。
画面越しに、いつもの声がした。

「奏様、少しよろしいでしょうか。
どうしてもお話ししたいことがあって」

奏は画面を見つめた。
カメラ映像には、ドアの外の廊下が映っている。
人の輪郭が見えた。

「……メールで」

「いえ、直接お話ししたいのです」

その声のトーンが、いつもと違った。
事務的でも柔らかくもない。
何か、整えたような——意を決したような声だった。

長い沈黙の後、奏は言った。

「……準備、期間が欲しい」

「分かりました。何日後がよろしいでしょうか」

「……いつがいい、とかある?」

「奏様のご都合に合わせます」

奏は考えた。
一ヶ月後と言いたかった。
二ヶ月後でもよかった。
しかし彼女の「どうしても」
という言葉が引っかかった。

「……一週間後」

「では来週の木曜日、十四時にお伺いします」

インターフォンが切れた。

奏はしばらく画面を見つめてから、ソファに倒れ込んだ。

一週間後。七日間。百六十八時間。

長い。しかし短い。

翌日から、奏の頭の中は「木曜日」で占領された。
曲が手につかなかった。
メロディーを考えていると、
いつの間にか「木曜日になったらどうしよう」
になっている。
眠れなかった。
食欲がなかった。

三日目には「延期できないか」とメールを打ちかけた。

しかし下書き保存したまま、送信しなかった。

分かっていたから。

延ばしても、Xデーは来る。
一週間後が二週間後になり、
三週間後になり、一ヶ月後になっても、
いつか必ず「木曜日の十四時」は来る。
それは絶対だ。

そして、その木曜日が来ても
自分が出ていかなければ
——彼女はどう思うだろう。

三年間、声だけを聴き続けた人が、
失望する顔を想像した。

それは、何故か、掃除機の音よりずっと怖かった。

六日目の夜、奏は音楽を聴いた。

彼女の鼻歌から生まれた「月光のプロトコル」。
自分で作ったはずなのに、
今聴くと他人の曲みたいだった。
サビのあの部分
——D♭メジャーで上がっていくメロディー
——に差し掛かると、なぜか目の奥が熱くなった。

「……おれ、ちょっとおかしいかもな」

誰にも聞こえない独り言を言って、
奏はヘッドフォンを外した。

明日が、木曜日だった。

---

## 第五章 リビング

目が覚めたとき、時計は十三時を指していた。

一時間ある。

奏は布団の中で天井を見つめた。
白い天井。
六畳の自室。
三年間のすべてがここにある。

起き上がった。

着替えた。
引き出しの奥から出した、
ほとんど着たことのない
シンプルな白いシャツと黒のパンツ。
洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分を見た。
顔色が悪い。
目の下にクマがある。
髪が少し伸びていた。

「……まあいいや」

十三時五十分に、奏はドアの前に立った。

ノブを掴む。
冷たい。
掌が汗ばむ。
これは三年前と同じだ。

しかし今日は、回した。

廊下に出た。

自分の足で廊下に立ったのは、一体いつ以来だろう。
白い壁。
窓から差し込む春の光。
日差しがまぶしかった。

足音を聞かれたくなくて、つま先立ちで歩いた。
意味はないと知りながら。

角を曲がった。

リビングに、人がいた。

——ああ。

奏の脳が、最初の一秒で情報を処理するのを諦めた。

立っていた。
ソファの前に、背筋を伸ばして立っていた。

長い黒髪をうしろで束ねて、紺色のスーツを着ていた。
細い。しかし細いというより、すらりとしていた。
百八十センチ以上——奏より十センチ以上高い。
眼鏡をかけていた。
細いフレームの、知性的な眼鏡。

奏が部屋の入り口で固まっていると、
彼女が顔を上げた。

目が合った。

黒い瞳だった。
落ち着いた、しかし何かを探るような——

「お待ちしていました」

その声を聞いた瞬間、
奏の体から、ふっと力が抜けた。

三年間聞き続けた声だった。

掃除機の音の隙間に聞こえた声。
廊下の向こうから届いた声。
鼻歌。
独り言。

「奏様、今日も良い曲、作れるといいですね」。

全部、この人の声だった。

「……宮代、さん」

声がかすれた。

「はい」と彼女——宮代は静かに答えた。

「お会いできて、光栄です」

奏はリビングに一歩踏み込んだ。
それだけで膝が笑った。
ソファまでの距離が、廊下の十倍に感じた。

「どうぞ、お座りください」

彼女が言った。
まるで奏の部屋なのに、彼女の方が落ち着いていた。

奏はソファに腰を下ろした。
宮代は向かいに座った。

テーブルの上に、書類が置かれていた。

「本題に入ります」

宮代が口を開いた。

「瀬川会長——建三郎様が、
今年の秋をもって引退される予定です」

奏は瞬いた。

「……引退?」

「はい。来年で八十一歳になられます。
後進への引き継ぎを進められており、
その一環として、奏様の資産管理部門についても、
今後の体制を整える必要があると判断しました」

宮代は淀みなく話した。事務の報告として。

「ご存知のように、現在奏様の収益管理は
グループの一部門として運営されていますが、
今後は独立した管理法人を設立することを
会長はお望みです。
そのための手続きや今後の方針について、
奏様のご意向を伺いたいと思っていました」

奏はテーブルの上の書類を見た。
数字と文字が並んでいる。

「……祖父は」

「はい」

「元気、ですか」

少し間があった。

「はい」と宮代は答えた。

声が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

「とてもお元気です。
ただ、自分がいなくなった後の奏様のことを、
非常に……心配されています」

奏は視線をテーブルに落とした。

窓の外で、春の風が吹いた気がした。

「……わかった」

ぼそりと、奏は言った。

「手続き、やります。言われた通りに」

「ありがとうございます」

宮代は書類を手前にずらした。
説明を始めようとして——

「あの」

奏は自分でも驚くほど、すんなりと声が出た。

宮代が顔を上げた。

「三年前に」奏は続けた。

「おれが詰まってた曲があって。
あのとき、廊下で鼻歌歌ってたの、覚えてますか」

宮代は少し目を瞬いた。

「……どうでしょう。無意識だったと思いますが」

「あの鼻歌が、あの曲のサビになった」

しばらく沈黙があった。

宮代は眼鏡の奥の目を、少し細めた。

「……もしかして」

「『月光のプロトコル』。一番有名な曲です」

宮代は何かを考えるように視線を落とし、
それから——わずかに、口元が動いた。
笑ったのかもしれなかった。

「知りませんでした」と彼女は言った。

「光栄です」

「鼻歌で一千万再生に貢献してる人に会ったの、
初めてです」

奏には珍しく、最後の方でかすかに語気が上がった。

宮代は今度こそ、はっきりと笑った。

声が出る笑い方ではなかった。
けれど確かに笑っていた。
眼鏡のフレームが少し動いて、黒い瞳に光が宿った。

奏はそれを見て、思った。

——ああ、声と同じだ。

落ち着いていて、芯があって、
しかしどこかに秋の夜気みたいな翳りがある。
声と、笑い方が、同じだった。

テーブルの上の書類が、
春の光を受けて白く輝いていた。

「では、手続きの説明に入りましょうか」

宮代が言った。

「……はい」

奏は答えた。

三年間で一番はっきりした声で。

---

## エピローグ

その日から半年後、
奏は初めて自分から外に出た。

祖父の引退パーティー。
大きな会場、大勢の人。
普通なら考えられない場所に。

祖父は奏の姿を見て、何も言わなかった。
ただ肩を一度叩いて、力強く頷いた。
それで十分だった。

帰り道、奏はタクシーの中でイヤフォンをした。

新しい曲のメロディーが、頭の中で鳴り始めていた。

キーはD♭メジャー。

少し翳りのある、
しかし芯の通った、秋の夜気みたいなメロディー。

タイトルは、まだ決めていなかった。

---

*了*