そう言えば最近 恋愛ものを作っていないな
って思ったので今回は恋愛ものにしました
# 三月の手紙
冬の朝の空気は、
駅のホームに立つだけで
肺が縮むような冷たさをしている。
田中誠は目を細めながら、
吐く息が白く広がっていくのを
ぼんやりと眺めていた。
昨夜、会社を出たのは日付が変わってから。
帰宅してシャワーを浴びてベッドに倒れ込み、
目を覚ますとすでにアラームが鳴り響いていた。
睡眠時間は三時間ちょっと。
頭の中はまるで霧でも詰まっているようで、
目の前の風景がどこかぼやけて見える。
電車が来た。
扉が開いた瞬間、人の波に飲まれた。
毎朝のことだというのに、毎朝うんざりする。
誠は押し流されるままに車内に押し込まれ、
どうにか手すりを掴んだ。
窓の外の景色がゆっくりと動き出す。
ぎゅうぎゅうと体が押し付けられる。
隣の人の鞄の角が腰に刺さる。
誰かの肘が背中に当たる。
おしくらまんじゅうというより、
もはや缶詰だ。
誠はひたすら耐えながら、
頭を空っぽにして揺れに身を任せていた。
ふと、顔を上げた。
寝ぼけた視線が、
人混みの向こうに引っかかった。
眼鏡をかけた女性だった。
ポニーテールにまとめた黒い髪。
おそらく大学生くらいだろう。
体が小さいせいか、
周りの大人たちに四方から押され、
今にも押しつぶされそうな顔をしていた。
唇を固く結んで、
ドア横の手すりを必死に握っている。
―――痴漢に間違えられたら嫌だな。
寝不足の頭に、
まず浮かんだのはそんな情けない考えだった。
我ながら情けない。
でも、男というのはそういう生き物だ、仕方ない。
それでも足は動いていた。
人と人の隙間を縫うように体を滑り込ませ、
自然な流れを装いながら彼女のそばに近づく。
ちょうど彼女と押し寄せてくる
人の波の間に入り込み、壁のように陣取った。
背中で人の圧力を受け止め、
足を踏ん張って流されないようにする。
少し、空間ができたはずだ。
誠は彼女の方を見なかった。
見るのは何となく照れくさかったし、
見たら彼女が気を使うかもしれないとも思った。
ただ黙って、前を向いたまま踏ん張り続けた。
しばらくして、気配を感じた。
彼女が顔を上げて、こちらを見ている。
そんな気がした。
横目で確認するほど野暮ではないつもりだったので、
誠はそのまま知らないふりを続けた。
電車は揺れ、人は押し合い、
窓の外を街が流れていく。
数駅後、車内アナウンスが流れた。
人の動きが変わった。
誠は自然な動作で、
人の流れを遮るように体を動かし、
彼女が出口まで歩けるスペースをそっと確保した。
扉が開く。
彼女はホームに降りた。
誠は前を向いたまま、
扉の向こうの気配を感じていた。
彼女がこちらを振り向いている。
そんな気がした。
それでも敢えて、気づかないふりをした。
扉が閉まった。
「……はぁ」
誠は静かに息を吐いた。
踏ん張り続けた足腰がじわじわと悲鳴を上げ始め、
気が抜けた途端、
今度は人混みに容赦なく揉まれ始めた。
肘が当たる、鞄が当たる、
誰かの頭が肩に乗っかってくる。
朝の通勤電車は今日も残酷だった。
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それから数ヶ月が過ぎた。
ブラック企業の時計は止まらない。
残業、残業、また残業。
帰宅すれば日付が変わり、起きれば夜明け前。
週末も呼び出されることがあり、
まともに休める日曜日というのは
なかなか訪れなかった。
あの朝のことは、
いつの間にか記憶の霧の中に沈んでいった。
そしてようやく、休日が来た。
目が覚めたら昼近くだった。
誠はしばらくベッドの天井を眺めながら、
自分が休んでいいのかという罪悪感と、
それでも体が動かないという現実の間で揺れていた。
カーテンの隙間から差し込む光が白く、
外は晴れているらしい。
腹が鳴った。
「……そうだった、飯」
冷蔵庫はほぼ空だ。
誠はもそもそとスウェットのまま立ち上がり、
コートを羽織って家を出た。
近所のコンビニまで歩いて五分。
日差しはあるが風は冷たく、春はまだ少し遠い。
眠い目をこすりながら歩いていると、
向こうから人が歩いてくるのが見えた。
誠は特に気にも留めず、
すれ違いざまに視界の端で、
その人物の顔をなんとなく認識した。
眼鏡。ポニーテール。
あ。
一瞬で気づいた。
だが体は止まらなかった。
頭は「なんとなく見たことある気がする」
という顔を装って、そのまま通り過ぎた。
「あの、すみません」
声が来た。
誠は二歩ほど歩いてから、
ゆっくりと振り返った。
彼女は小走りで追いかけてきて、
誠の前で立ち止まった。
間近で見ると、あの朝よりずっと表情があった。
困ったような、
でも何かを決意したような顔をしている。
「春に……電車の中で、助けてもらいました。
覚えていますか」
誠は少し間を置いて、
「ああ」と、思い出したように首を傾けた。
「混んでたやつか。
いや、気にしないでよ。大したことしてないし」
「大したことあります」
彼女は真っすぐに言った。
「あの時、すごく苦しかったんです。
ちゃんとお礼が言いたかったんですけど、
降りる時に振り返ったら……もう前向いてて」
そりゃあそうだ、と誠は心の中で思った。
「気にしなくていいって。ほんとに」
彼女は少し俯いた。
それから、バッグの中をごそごそと探って、
一通の封筒を取り出した。
両手でしっかりと持って、
誠の方へ差し出してくる。
「これ、受け取ってもらえますか」
封筒だった。
きちんと封がされていて、
表には何も書いていない。
誠は首を傾けながらも、受け取った。
ふと気づいた。
彼女の顔が、耳の先まで真っ赤だ。
「じゃ、あの、失礼します」
それだけ言うと、
彼女は踵を返して走り去っていった。
小さな背中が角を曲がって消える。
誠はしばらく、封筒を手に立ち尽くした。
「……お礼の手紙でも入ってるのか」
そう呟いて、コンビニへと歩き出した。
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自宅に戻り、買ってきた弁当を温めて食べた。
テレビをぼんやり眺めて、
日当たりのいいソファの上でうとうとしかけた。
封筒のことを思い出したのは、そのときだった。
コートのポケットに突っ込んだままだった。
誠はのっそりと立ち上がり、封筒を取り出すと、
特に深く考えずに開けた。
便箋が二枚、折りたたんで入っていた。
丁寧な文字だな、と最初に思った。
読み始めた。
最初の一段落は確かにお礼だった。
あの朝のことが細かく書かれていて、
どれほど助かったか、
降りる時に振り返ったら前を向いていたこと、
名前も知らないままお礼も言えず
ずっと気になっていたこと。
二段落目になって、文章のトーンが変わった。
誠の顔が、じわじわと熱を帯び始めた。
それからは、
自分でも驚くような速さで
顔が赤くなっていくのがわかった。
書かれていることの意味を、
頭が認識するたびに体温が上がる。
―――あの後ずっと、
あなたのことが頭から離れませんでした。
―――こんな気持ちになったのは、初めてです。
―――もし、迷惑でなければ。
これはどう読んでも、どこをどう解釈しても。
「……ラブレターじゃないか」
誠は便箋を持ったまま、ソファにどさりと沈んだ。
なぜ。どうして。俺に。
頭の中が疑問符で埋め尽くされた。
混んだ電車の中で少しだけ壁になっただけだ。
大したことでも何でもない。
顔だって平凡で、
学生時代は女子に話しかけることすら
緊張していたし、
告白なんて一度も受けたことがない。
社会人になってからはさらに拍車がかかり、
休日に女性と話す機会がそもそも存在しなかった。
一生このまま独り身かな、
と何度思ったかわからない。
そんな男に。
こんな展開が。
「夢か?」
思わず口に出した。
自分の声が思ったより掠れていた。
手紙の最後を、もう一度読んだ。
丁寧な字で、LINEのIDが書いてあった。
よければここに連絡をください、と。
誠はしばらく便箋を見つめていた。
窓の外は静かで、
冬の終わりの白い日差しが部屋に差し込んでいる。
春にはまだ少し間があって、風は冷たく、
梅の花がそろそろ咲く頃だろうか。
スマホを手に取った。
LINEを開く。
ID検索の欄に、
手紙に書かれた文字を一字一字、
丁寧に打ち込んでいく。
送信ボタンを押す前に、誠は少しだけ止まった。
何を書けばいいのかわからない。
というか、何と名乗ればいい。
どんな顔して送ればいい。
でも。
これが自分の人生の中で、最大の転機かもしれない。
寝不足で霧がかかったままのこの頭でも、
それだけははっきりと感じた。
―――こんにちは。今日、手紙をもらった者です。
カーソルが点滅する。
誠はもう一度だけ便箋に目を落として、
それからゆっくりと、送信ボタンを押した。
まだ寒い二月の午後。
一足早い春が、
この小さな部屋に
そっと忍び込んできたような気がした。