# ヘラクレスの弓

## 第一章 予言者の言葉

アキレウスを失ったギリシャ連合軍は、
深い絶望に包まれていた。

最強の戦士なくして、
どうやってトロイアを落とせばいいのか。

その時、予言者カルカスが口を開いた。

「戦争が長期化している原因は明らかだ」
老予言者の目が光った。

「ヘラクレスの弓がないからだ」

「ヘラクレスの弓...?」
アガメムノンが問うた。

「そうだ。あの神弓がなければ、トロイアは落ちぬ」

一人の男が顔色を変えた。オデュッセウスだった。

彼は、その弓の持ち主を知っていた。

## 第二章 忘れられた男

「レムノス島へ向かう」

オデュッセウスは、
勇士ディオメデスを伴って船出した。

レムノス島――荒涼とした、誰も住まぬ孤島。

だが、そこには一人の男が住んでいた。

ピロクテテス。

トロイア戦争の初期、
彼は誤って自らの毒矢を足に刺してしまった。
ヒドラの毒が塗られた矢だった。
傷は腐り、耐え難い悪臭を放った。

「あの臭いには耐えられん」

仲間たちは、
ピロクテテスをこの島に置き去りにした。

あれから、約十年――。

## 第三章 裏切られた男の怒り

「ピロクテテス!」

オデュッセウスが呼びかけると、
洞窟から一人の男が現れた。

髪は乱れ、髭は伸び放題。
痩せこけた体に、ぼろ布をまとっていた。
だが、その手には、黄金に輝く弓が握られていた。

ヘラクレスの弓。

「よくも...」
ピロクテテスの声は、憎悪に震えていた。

「よくも現れたな、オデュッセウス!」

「すまなかった。だが、今こそその弓が必要なのだ」

「ふざけるな!」
ピロクテテスは弓を構えた。

「十年だ! 十年もこの島で、
お前たちは私を見捨てた!」

「頼む。トロイアを落とすために――」

「知るか! 帰れ!」

オデュッセウスとディオメデスは、
何度も説得を試みた。

だが、ピロクテテスは首を縦に振らなかった。

## 第四章 親友の言葉

その夜、ピロクテテスは夢を見た。

黄金の光に包まれた男が、洞窟に立っていた。

「ヘラクレス...!」

かつて、この弓を譲ってくれた、最愛の親友だった。

「ピロクテテスよ」
ヘラクレスの声は優しかった。

「トロイアへ行け」

「しかし...」

「トロイアには名医がいる。
お前の足を治してくれるだろう」
ヘラクレスは微笑んだ。

「そして、その後――争いの根源、
パリスを射抜くのだ」

「パリス...」

「お前の弓でなければ、
彼は倒せぬ。頼んだぞ、友よ」

光が消えた。

ピロクテテスは目を覚ました。

## 第五章 名医の治療

翌朝、
ピロクテテスはオデュッセウスたちの前に立った。

「...行こう」

「本当か?!」

「ヘラクレスが、そう言った」

三人は船に乗り込み、トロイアへと向かった。

トロイアに着くと、
ピロクテテスは名医マカオンのもとへ連れて行かれた。

「これは...ひどい」
マカオンは眉をひそめた。

「だが、治せる」

薬草が塗られ、包帯が巻かれた。

数日後、ピロクテテスの足は完全に治った。

「十年ぶりに...歩ける」

彼は涙を流した。

そして、ヘラクレスの弓を手に取った。

## 第六章 運命の一矢

戦場に、パリスが現れた。

トロイアの王子は、
いつものように華やかな鎧に身を包んでいた。
アキレウスを殺した男として、彼は得意げだった。

「パリス!」

ピロクテテスが弓を構えた。

矢には、ヒドラの毒が塗られていた。

弦が引かれた。

矢が放たれた。

風を切る音の後――矢は、パリスの胸を貫いた。

「ぐあっ!」

パリスは倒れた。

## 第七章 前妻の選択

「誰か...誰か治療を!」

トロイアの兵士たちが駆け寄った。
だが、誰もこの傷を治せなかった。

「オイノネ...」
パリスは苦しみながら呟いた。

「オイノネを...」

オイノネ――パリスの前妻。
彼がヘレネと駆け落ちする前に、捨てた妻だった。
彼女は医術に長けた女性で、
この傷を治せる唯一の人物だった。

使者がオイノネのもとへ走った。

「パリス様が...治療を...」

オイノネは冷たく答えた。

「お断りします」

「しかし!」

「私を捨てた男です。
なぜ、私が助けなければならないのですか」

使者は手ぶらで戻った。

パリスは、苦しみながら息絶えた。

## 終章 炎の中の後悔

パリスの遺体は、火葬台に置かれた。

炎が上がった。

遠くから、一人の女性がそれを見ていた。

オイノネだった。

炎を見つめるうちに、彼女の目から涙が溢れた。

「私は...間違っていた」

かつて愛した男。自分を捨てた男。憎んでいた男。

だが――やはり、愛していた。

オイノネは走り出した。

「待って!」

誰かが止めようとしたが、彼女は振り切った。

そして、炎の中へと飛び込んだ。

「パリス...!」

二つの体が、炎に包まれた。

人々は、ただ呆然と見守ることしかできなかった。

愛と憎しみ。後悔と赦し。

すべてが炎の中で一つになった。

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パリスの死は、
トロイア戦争の終わりの始まりだった。

ヘレネを奪った男は死んだ。

だが、戦争はまだ終わらない。

オデュッセウスの狡猾な頭脳が、
最後の策を練り始めていた――。