街中に違反をしている自転車が

あまりにも多いので

こういうお話にしてみました

 

 

# 自転車――ある主婦の崩壊

夕陽が傾きかけた頃、麻衣子は急いでいた。

スーパーのレジ袋を前カゴに押し込み、
自転車にまたがる。
時計を見れば午後六時を回っている。
夫の帰宅は七時半。
それまでに夕食の支度を終えなければ。

ペダルを踏み込む。
歩道を走る自転車は、いつもより速い。

「邪魔だな」

前を歩く人々を縫うように、
麻衣子は自転車を走らせた。
一時停止の標識など、
もう何年も気にしたことがない。
信号が黄色でも渡る。
歩道を走るのが当たり前。
それが彼女の日常だった。

商店街を抜ける手前、
杖をついた若い男性が
前方をゆっくりと歩いていた。
足を引きずっている。道幅は狭い。

「すみません!」

声をかけるが、男性は気づかない様子だ。
麻衣子はスピードを緩めず、
その脇をすり抜けようとした。

カツン。

ハンドルが男性の肩に触れた気がした。
振り返ると、男性がよろめいている。
でも倒れてはいない。

「大丈夫、よね……」

麻衣子はそのまま走り去った。時間がない。
きっと問題ない。そう自分に言い聞かせながら。

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「ただいま」

夫の声が、いつもと違った。

リビングに入ってきた
夫・健一の顔は青ざめていた。
ネクタイは緩められ、額には汗が滲んでいる。

「どうしたの?」

「麻衣子……会社が、終わるかもしれない」

健一は震える声で告げた。

「何を言ってるの?」

「会長の孫が……事故で亡くなったんだ。
会長は今日から入院。会社は大混乱だ。
このまま倒産するかもしれない」

麻衣子の頭が真っ白になった。

「倒産って……住宅ローンは?
子供たちの進学は?」

「わからない。まだわからないんだ」

「何をわからないって言ってるの!
あなたの責任でしょう!」

麻衣子の声は次第に大きくなった。

「あなたがちゃんとしてないから、
こんなことになるのよ!
もし本当に無職になったら……離婚するから」

健一は何も言い返さず、ただ俯いていた。

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翌朝、テレビから流れてくるニュースに、
麻衣子の手が止まった。

『昨日午後六時頃、
市内の商店街付近で足の不自由な男性が
自転車と接触後、転倒して頭部を強く打ち、
搬送先の病院で死亡が確認されました。
男性は大手企業グループの会長の孫で……』

画面には見覚えのある商店街の映像が映っている。
そして、杖をついた若い男性の写真。

あの人だ。

麻衣子の呼吸が止まった。
手に持っていたマグカップが、
床に落ちて割れる音がした。

「ママ、大丈夫?」

娘の声が遠くに聞こえる。

『現在、警察は轢き逃げ事件として
捜査を進めています』

轢き逃げ。自分が。殺した。

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それから数日、麻衣子はスマートフォンから
目が離せなくなった。

ニュースサイトを開けば、事件の続報。
SNSを見れば、怒りに満ちた声。

『絶対に許せない』  
『犯人を特定しよう』  
『防犯カメラの映像を集めてる』  
『ママチャリに乗った中年女性らしい』

コメント欄は次々と更新されていく。
誰かが商店街の防犯カメラ映像を
キャプチャして投稿している。
不鮮明だが、自転車に乗った
女性の後ろ姿が映っている。

それは、自分だ。

麻衣子の手が震える。画面がぼやける。

「ママ、ご飯は?」

息子の声にも、もう答えられない。

食事を作れない。眠れない。
夫と目を合わせられない。

会社は結局、倒産を免れたが、
健一は大幅な減給となった。
それでも麻衣子には、もう何も言えなかった。

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十日が過ぎた頃、麻衣子は限界を迎えていた。

鏡を見れば、別人のように痩せこけた顔。
目の下には深い隈。髪は乱れ、服はしわだらけ。

「出頭しなきゃ」

何度も思った。でも、できなかった。

家族が崩壊する。
子供たちは犯罪者の娘と息子になる。
夫は会社にいられなくなる。

「でも、あの人を……殺したのは私なのに」

午後三時、麻衣子は突然、家を飛び出した。

どこへ行くのかもわからない。
ただ、この家に、
この息苦しさに耐えられなかった。

商店街を歩く。あの日と同じ道。
事故現場には花束が手向けられ、
白い札が立てられていた。

麻衣子は立ち尽くした。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

涙が止まらない。膝が震える。

後ろから、自転車のベルの音が聞こえた。

振り返ると学生服を着た少年が、
猛スピードで歩道を走ってくる。

「危ない!」

誰かの声。

麻衣子は避けようとして、足がもつれた。

自転車が麻衣子の体に激しくぶつかる。
体が宙に浮いた。そして、車道へ。

ブレーキの甲高い音。

視界が回転する。

最後に見えたのは、青い空だった。

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翌日のニュース。

『昨日午後、
市内の商店街で女性が自転車と接触して
車道に転倒し、
走行中の乗用車にはねられ死亡しました。
警察は自転車に乗っていた少年から
事情を聴いています』

そして、その下に小さな記事。

『先日の轢き逃げ事件、
防犯カメラの解析が進み、
容疑者の特定が近づいているとのこと』

事件は、未解決のまま残された。

ただ一つ確かなのは、
あの日から誰も幸せになれなかった
ということだけだった。

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**【終】**