こんにちは。
Co-leadersのSHIHOです。
久しぶりの投稿。
大阪で大きな地震があって、グラグラ始まった今週ですが
今地球では何が起こっているんだろうね。
最近の出来事から。
ちょっと思ったことを。
誰かにとっての「とても大切な体験」
はその人にとっては、シェアすることにとても勇気がいるし
聴いている他の人に、分かち合えなあったらどうしよう、という思いもある。
それがさらーっと流れてしまった時の切なさも、
「なんか、感極まっていたね」とどこか客観的に話されていることも、残念で、
受け取り方を確認したいというエゴも起こる。
そして残酷にも
私にとっての「とても大切な体験」は
誰かにとってはどうでもいいこと、だったり
言っている意味がよくわからなくて、分かち合えないことだったりする。
心が閉じてたり、自分でいっぱいいっぱいだと
相手の置かれている状況なんて知らないことの方が多い。
それはそれとして、そうなんだけど、
私たちは、受け取ってほしいと期待するならば、そしてなんらかの反応を期待するならば、
どんな声だって受け止める覚悟を持って、話さなきゃいけない。相手の受け取りやすい言語で話さなきゃわからない。
同時に、「聴き方」ひとつで、
その人は自分に心開くか、諦めるかを判断してもいるんだよと。
だから、よくわからなかったり、どうでもいいことに思えたとしても
その人との関係性をどうしたいかによって、
聴く方としても、「聴き方」を選択できるんだよ、ということ。
つまりは
私たち人間ってとっても面倒ないきもので、
「そうなんだね」と何も感情を触れずに、ただそこに置かれた言葉として扱うこともできるし
「ふんふんっ、わー!そうなんだね!」と感情を載せることもできる。
「ふーん・・・」とすることもできる。
いつだって選択できるのは
他人の聴き方をリクエストすることではなく、
自分がどうかということを選択するのみなんだ。
共鳴する人も、しない人もいる。ただそれだけ。
あなたの話の他人の聴き方が
何か”ちゃんと聴いてくれてない感”がある時には
是非、自分の無自覚な聴き方を
再確認してみて。
約束に遅刻したり、
ながら作業で相手の話を聴いていたり、
そんなことしているかもしれないよ。