私にとっての「大切な体験」は誰かにとって「ふーん」かもしれない | ステップファミリー×組織開発

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どん底だったシングルマザーの時代から幸せなステップファミリーを築いた軌跡。現在はパーソナルのコーチング(1on1)と組織開発や関係性のシステムコーチとして、あらゆる組織や家族・カップルの応援をしています。

こんにちは。

Co-leadersのSHIHOです。

久しぶりの投稿。

大阪で大きな地震があって、グラグラ始まった今週ですが

今地球では何が起こっているんだろうね。

 

最近の出来事から。

ちょっと思ったことを。

 


 

誰かにとっての「とても大切な体験」

はその人にとっては、シェアすることにとても勇気がいるし

聴いている他の人に、分かち合えなあったらどうしよう、という思いもある。

 


それがさらーっと流れてしまった時の切なさも、

「なんか、感極まっていたね」とどこか客観的に話されていることも、残念で、

受け取り方を確認したいというエゴも起こる。

 


そして残酷にも

私にとっての「とても大切な体験」は

誰かにとってはどうでもいいこと、だったり

言っている意味がよくわからなくて、分かち合えないことだったりする。

心が閉じてたり、自分でいっぱいいっぱいだと

相手の置かれている状況なんて知らないことの方が多い。

 


それはそれとして、そうなんだけど、

私たちは、受け取ってほしいと期待するならば、そしてなんらかの反応を期待するならば、

どんな声だって受け止める覚悟を持って、話さなきゃいけない。相手の受け取りやすい言語で話さなきゃわからない。

 


同時に、「聴き方」ひとつで、

その人は自分に心開くか、諦めるかを判断してもいるんだよと。

だから、よくわからなかったり、どうでもいいことに思えたとしても

その人との関係性をどうしたいかによって、

聴く方としても、「聴き方」を選択できるんだよ、ということ。

 


つまりは

私たち人間ってとっても面倒ないきもので、

「そうなんだね」と何も感情を触れずに、ただそこに置かれた言葉として扱うこともできるし

「ふんふんっ、わー!そうなんだね!」と感情を載せることもできる。

「ふーん・・・」とすることもできる。

 


いつだって選択できるのは

他人の聴き方をリクエストすることではなく、

自分がどうかということを選択するのみなんだ。

 


共鳴する人も、しない人もいる。ただそれだけ。



あなたの話の他人の聴き方が

何か”ちゃんと聴いてくれてない感”がある時には

是非、自分の無自覚な聴き方を

再確認してみて。



約束に遅刻したり、

ながら作業で相手の話を聴いていたり、

そんなことしているかもしれないよ。