●心と身体を縛り、移動を「邪魔」しようとしている存在
我々が何か新しいことをしようとするとき、
我々がゴール方向へ一歩踏み出しはじめようとするとき、
心と身体を縛り、移動を「邪魔」しようとする存在って、なんでしょう?
それは我々自身でしょうか?
それは我々以外の、他の存在でしょうか?
ドリームキラー。
それが、この正体です。
我々の自己評価を下げていくように働きかけ、可能性を広げていくこと、楽しむこと、喜ぶこと、表現することを求める自由を心身から奪い、人生のゴール達成を阻む手強い存在です。
そういう風にして、あなたが変わっていくこと、あなたが現状を変えていくことを邪魔してしまう。
たとえば、我々がよく使っている言葉、
けれど…、でも…、もし…
こうした言葉。
これらは昨日までのあなたの過去だけに執着・依存した言葉で、現状と未来の間に居付かせ、心身を引き裂いていく、あなたの過去にもとづいた、未来を無視した言葉です。
言葉という情報は当然、物理的にも働きます。
言葉に心身が絡め取られてしまう。
すると身体は動かず、いつまで経っても、どれだけ考えてみても、どこへも行けなくなってしまう。
ひたすら現状を維持をし続けることになります。
現状を維持したいのか、現状の外へ飛び出していきたいのか…
それを最終的に選択できるのは我々自身であり、逆をいえば、それを選ぶ自由を我々は持っています。
どっちにも行ける。
しかしその自由を手渡された途端、その自由を不自由に感じてしまうのもまた、我々かもしれません。
…
そこで、認めたくはないけれど、観えてきそうな、納得できそうな、ある一つの事実に気づくことになります。
それは、
我々のマインドは旧態依然として、書き込まれた、刷り込まれた情報(=他者のモノサシ)によって作られた、規定された奴隷、生贄マインドのままだったということに…
その状態が実は、無意識(=ホメオスタシス)レベルではとても気持ちよくなってしまっていたことに…、変なダンスを踊らされていたことに…
ところで、
同じように認めたくはないトラウマ、愛着システムといった不具合は、我々から「主体」を奪います。
自己の喪失。
自分の感覚、感情を押し込められることで自己を喪失していくことは本来、人としては酷く窮屈で、不自由で、耐えられないものなはずです。
それはそれで心身にとっては過酷です。
そして、耐え続けることが過酷だからこそ、それを回避していく方向へ、自らの氣と能力を使います。
どう使うのかといえば、自分でもまた、それを押し込めはじめていく。
そして今、この押し込めた状態というのは我々の中では無意識レベルで楽な状態であり、心地よい状態ということを、我々は自覚した方がいいと思っています。
自覚(じかく)とは、自分自身の置かれている状態や自分の価値を知ること。本来は仏教用語である。自覚は単に意識の有る無しを意味するほかに、文字通り自ら覚ることを指す。「覚る」とは気付くことであり…(wikipediaより引用)
自覚して、検証してみて、観測してみて、それでやはり書き換えた方がどう考えてもいいよねと自分で思えるのなら、やはりそうした方がいいと思います。
可能性を追求していく、広げていく、それで楽しむ、喜ぶって、マジで爽快じゃん!
WK WORKSではそのように感じてます(笑)