●自責を捨て去ると、、、
自分で自分のあやまちを責めてしまうことを「自責」といいます。
我々はこの自責によって行動が制約されてしまったり、自分の可能性を悉く潰してしまったりしています。
「自分の言動を振り返って自分を責める感覚が湧いてくる。頭の中で自分を罵倒する、自分を責めるのです。(中略) 自責は、半ば人格化しているケースも多々あります。独立した人格のように、もう一人の自分が自分を責めてくるのです」
(みきいちたろう著「発達性トラウマ「生きづらさ」の正体」より引用)
僕自身、40年以上も自責に苛まれつづけていた人間のひとりでした。
自分で自分を責めているもうひとりの自分という存在があったことにも全く気づいていません。
そんなまさか、、、
自分の中にそのような存在があったことに驚きましたが、その事実を知ったときというのは不安よりもむしろ、深く深く心が安らいでいったことを覚えています。
なぜ安らいだのかといえば、事実に気づいたからです(意識に上げられたことで)。
さらに、実は自分がそのような事実を答えのない自分への「問い」として長い間持ちつづけていたこともあきらかになりました。
実はこうしたことって、たとえ人から誠意をもって伝えられていたとしても、自分の腑に落ちるレベルまで達して行くには少し時間がかかるようにおもいます。
なぜかといえば、身体の状態が皮膚、筋肉、内臓、神経系などにおいて何らかの不具合を起こしている可能性があって、事実を事実として受け入れるだけの身体レベルまで整っていなかったからです。
そういえば、僕が事実を事実として受け入れられた瞬間というのは気功聖体セッション(聖体とメンタリング)で相当に身体が緩んでいたその数日後のこと(心身はまだ計算中の状態です)。
このとき僕はある露天風呂に向かっている途中で、気持ちよくドライブ中でした。
確かこのとき、このようなリズムをもった音楽(①②)を気持ちよく聴いていたことを覚えています。
膜のようなものが胸の表面から剥がれて、鎖骨、大胸筋、胸骨、肩あたりが一気に軽くなり、すごく清々しい気持ちになりました。
それはそうと、、、
もう一度繰り返してお伝えすると、自責とは自分で自分のあやまちを責めてしまう行為です。
ところが、おもっている自分の「あやまち」が、実は自分のあやまちでない場合もかなり多くあるのではないのかとおもっています。
思い込みだった場合です。
思い込みとは、そうだと固く信じる、固く心に決めるということ。
思い込みは誰にでもありますが、そうなってしまうと、いや、事実は果たして本当にそうなのだろうか?、自分の思い込みではないのだろうかという方向に思考が向かいづらくなります。
たとえば、家族、友人、仲間など自分の大切な存在、自分の愛する存在を救えなかったことでその記憶が自責につながってしまうケースというのは国籍や人種を問わずかなり多くあるパターンです(僕もそのパターンに該当するうちのひとりでした)。
そのことで、自分で自分を責めてしまう、自分で自分を攻撃してしまう、
もうひとりの自分が、怒れる自分が、自分の中で人格化されていました。
その人格は、want to(~したい)というような生き方をしたいとか、ゴールを達成したいとか、夢を叶えたいなんてことを許さない。
まさにドリームキラー(=ゴール達成を邪魔する存在)として自分自身を貶め、自分の能力や可能性を閉ざしてしまったり、自分自身を破壊的な方向へクリエイティブに働いていってしまいます。
こうした状況から自分自身を救い出すのは決して容易いことではありません。それは自ら身を持って経験してきている僕自身がリアルに感じているところです。
では、ただこのまま、じっとしたまま、何も変えられずに人生の傍観者として生きていくしかないのかといえば、それはちがいます。
決して一足跳びには行かないかもしれませんが、諦めないかぎり、現状を変えていくことは必ずできます(我々ができないとおもい諦めてしまったことの殆どは、できないから諦めたのではなく、正確には、諦めたからできなかったと捉えたほうがいいです)。
自責という「情報」を手放すことでこれまで感じたことのない感覚を感じられるようになると共に、自分のwant to(~したい)の生き方や新しいチャレンジなどがしたくなっていきます。
すると、これまで見たことのない新しい風景が見えはじめ、その風景が少しずつ広がっていき、人生が少しずつ変わっていくそのような感覚を確かに感じていくようになります。