嫌なこと、問題、試練、悩み・・・
こういう事が起きるとわかる
幸せというものは、
実は何も起きない
普通の生活である、
ということが。
お金の問題
健康問題
対人関係の問題
いろんな問題や悩みがありますが、
一番は、身近な人の命が
脅かされている時などは、
どんな大きな問題も問題ではなくなります。
命があるだけでそれでいい、
という願いに変わるからです。
そんな時は、お金なんてなくていい
何もかも失っていい、
だからこの人の命だけは助けてください、
と祈念してしまうような
そんな状況になると、普段の何もない
平穏な暮らしがいかに幸せかが
わかるものです。
野菜や食べ物の甘さは、
塩で際立ちます。
人生の中での幸せも、
こうした問題や試練などで
いかに幸せだったのか。
多くを求めるよりも、
今のままでもかなり幸せだと
わかるものです。
だからこそ、問題が起きた時
そんな見方ができるように
なるといいのかもしれません。
病気になれば、
健康のありがたみを思い出し
お金がなくなれば、
お金があった時のありがたみを思い出し
誰かが亡くなると、
いつもそばにいる人が当たり前では
なかったことを思い出し、
身近な人を大切にしようと思えたり…
よくない出来事は
今ある当たり前が当たり前ではなく
奇跡なくらいありがたい、
と言うことを思い出させる
塩のような役目になります。
私の人生の中での試練は
いくつも折り重なり、
これ以上ないと思えるほどでした。
大切にしていたトップ3を
一気に失う辛さを体感中に、
なんと反対側の極にある
何気ない日常の平穏な幸せに
無上の喜びを感じたことがありました。
両極を一気に味わう経験は、
かなり類い稀。
もう、何もかも嫌になっていたはずなのに、
そのどん底状態で、涙が出るほど
幸せを感じた瞬間が、あまりにも
小さなことなのですが、
脳内ふらふら状態で入った
ホテルのカフェで、今では何を
頼んだか忘れましたが、
食欲もなかったですが食事を頼んで、
コーヒーを飲んだ時に
涙が出るほど感謝の気持ちに
満たされたのでした。
その気持ちのまま家に戻ったら、
ずっと私を慕ってくれている
ハナがシッポが千切れんばかりに
フリフリしながら迎えてくれる。
マイケルは、どっしり構えて
いつも私を見守ってくれている。
これ以上求めなくても
いいのではないか?と
思えるほどでした。
どん底で感じたその日常の幸せは、
ありがたくて、そして、
そんな状態で感じた反対側にある
幸せを感じた時に、驚いたと共に
そうなろうと思えばできるのだ、
と確信し、それを伝えています。
意識次第なのだ、ということ。
あんなに悲しかった母の死でしたが、
初七日?だったかな。
お坊さんが我が家に来て、
お経を読んでいる間、
しみじみ母を思い出して
涙が出そうになった瞬間に、
お経を唱えているお坊さんの
後頭部に目が行き、なぜかその形が
おかしく見えて、フッ・・・と
笑ったが最後。
もう、おかしくておかしくて
姪っ子と一緒に、クックック・・・と
笑い声が出ないように肩を揺らし
お腹が痛くなるくらい笑っていた時も、
「なんだ、自分。笑えるじゃん?」と
不思議な感覚になりました。
問題があった時には、
とかく問題に意識が向き過ぎて
どんどんその問題は
自分を支配するようになります。
しかし、問題が起きた時こそ、
その反対側にある何もなかった日常や
何気ない幸せにフォーカスして、
今あるものに目を留めた時に、
幸せを感じたり、
問題も小さくなることがあります。
いつも言っていますが、
「それは、難しいです」と
言わないことです。
問題を本当に解決したいなら。
それを思う、言う、と言うのは
「私は今の状態を変えるつもりはないです」
と言う意味だけでなく、本当に何かを
やる時に、何もかも難しくなり、
パフォーマンスがいつも低い人に
なってしまいます。
いつも言う言葉は、自己暗示です。
どうせ自己暗示するなら
いいことを暗示したいものです。
今何か問題がある人がいますか?
今これを書いていて、私も小さな問題を
いくつか思い出しましたが、
小さなゴミ・・・いや、目に見えない
微小の塵みたいなものだと
一瞬にして思えました。
今抱えている問題はあるけど、
ホニャララははうまくいっている。
ホニャララはなくなったけど、
まだ別のホニャララは残っている・・・
と言う具合に、今あるものに目を留めて
いきたいですね。
その繰り返しで
幸せ思考を作っていくからです。
あなたは今何か問題を抱えていますか?
それでもあなたに残っているものは
何ですか?ではまた明日。