今日は、過去に書いた記事を

ちょいと加筆修正して

お送りいたします。

 

 

 

誰かの幸せを祈る

 

 

仙台、最近は毎日とても寒いですが、

キリッ!とした冷たい

澄みきった空気を吸い込み、

それを肌で感じ、空気を味わうとき、

至福の感情に満たされ、

得られているすべてのことに

ありがたいな~、という気持ち

がこみ上げます。

 

 

ハナの散歩で毎日

そんなふうに感じることが

できるのはありがたいことです。

 

 

そして天を仰ぎ、

好きな人々が幸せであるように・・・

愛する友たちがますます

笑顔になるように・・・

 

 

そんなことを思える自分は

本当に幸せなのだな、と

しみじみ感じます。

若き頃は、そのような余裕が

まったくなかったからです。

 

 

自分の好きな人が幸せであると、

自分の幸せにもなりますしね。

 

 

しかし、逆にですが、

自分の嫌いな人は不幸になればいい、

と思ってしまうことがあるかも

しれません。

 

 

ちょっと視点を変えてみると、

自分の嫌いな人が幸せですと、

実は関わる自分の幸せにも

関係してきます。

 

 

それが例え、

全く知らない人であっても・・・

 

 

こうなるとスピリチュアルな

世界へようこそ!にもなるのですが、

やはり、私はユングの

集合意識体を完全に

信んじているものの一人で、

自分が嫌った誰かのその気持ちは、

必ずや回りに回って

自分に戻ってくることも

信じております。

 


 

嫌いな人、苦手な人がいてもいい

 

 

人を嫌うとかの感情は

あまりないのですが(忙しくて)

しかし、時々芽生えることもあります。

 

 

ただ、苦手な人や嫌いな人、

というのは、自分の価値観や信念が

しっかり固まっているからあるもので、

それも悪いことではありません。

 

 

苦手も嫌いも好みのようなものでして、

「苦手意識を持っちゃダメ!」みたいに、

自分を否定しなくてもいいのです。

「ああ、こういうタイプが嫌いなのかー」

ってくらいでOK。

 

 

嫌いな人が苦しめばいい、と

念じることや、嫌がらせする人が

不幸になればいいとか

目の前から失せろ!という

エネルギーの無駄遣いは

体にも悪いので、エネルギーは

自分のためだけに使ったほうが

健全であり建設的です。

 

 

実は、苦手な人も嫌いな人も、

自分の一部だからです。

 

 

以前、私のクライアントから、

よく読んでいる本の著者の

アルボムッレ・スマナサーラの

CD付きの本を教えてもらった

ことがありました。

 

 

彼は、仏教のお人。

毒舌で結構おもしろくて好きですが、

彼の本は深すぎて、よく意味が

わからないこともあるんですけどね。

 

 

彼が日本語で唱えている

「慈悲の瞑想」という

CDをその時初めて聞きました。

(7年くらい前になるでしょうか)

内容は…

 

 

 

慈悲の瞑想

 

 

私が幸せでありますように…

私の悩み苦しみが

なくなりますように…

 

私の親しい人々が

幸せでありますように

私の親しい人々の悩みや

苦しみがなくなりますように…

 

生きとし生けるものが

幸せでありますように

 

 

と続いていくのですが、

心地よい気持ちで聞いていましたが、

次の言葉たちが、心の中にグッときました。

 

 

私の嫌いな人々も

幸せでありますように。

私の嫌いな人々の願い事が

叶いますように。

 

中略・・・

 

私を嫌っている人々も

幸せでありますように

私を嫌っている人々の悩みや

苦しみがなくなりますように

 

 

と続きます。

 

 

スマナサーラの流れるような、

声を聴いたときに、心の浄化が

始まったような感覚になりました。

 

 

この「慈悲の瞑想」は

批判もされているそうです。

偽善だとか、上から目線だとか・・・

それを批判をしている人々もまた

随分と上から目線のような

気もしますがね 笑

 

 

当時、その言葉を聞いた時、

何度もその言葉が頭の中が

グルグルして、嫌いな人の顔が

頭の中を巡りまして、

大抵そうした人々も私のことを

嫌っている人々ですが、

 

 

 

祈りの力

 

 

その人々が幸せでありますように、

その人々の願い事が叶いますように…

と心の中で何度も唱え続けましたら、

すぅーっと心が楽な感じに

なっていきました。

 

 

この時に、言葉にはパワーがあって、

言葉の周波数というものを

体感できように感じます。

心なんてこもっていなくてもいいですよ。

言葉自体が周波数ですから。

 

 

聖書の言葉の中にも

「あなたの敵を愛し続け、

あなたを迫害している者たちの

ために祈り続けなさい」

 

 

という言葉があるのですが、

「敵を愛する」という行為は、

私自身が浅すぎて、どうやって

愛するのか?なんてわからず、

自分にはまだまだ理解が

できない部分でした。

 

 

その聖句の後半に

「その者たちのために祈り続けなさい」

とありますが、まさに、

スマナサーラが読んだ経典、

それは「こうやって祈ればいいのか…」

という腑に落ちる感じがしたのです。

 

 

まるで心が浄化されるように。

 

 

聖人君子を目指してもいませんし、

一人で暴言を言うこともありますし、

暴れん坊大将軍みたいに

なっている時もありますし、

腹も立ちますし頭にも来ます。

そんな自分、人間臭くて好きです。

 

 

ただ、スマナサーラの

祈りの言葉(CD)を聞いていて、

この祈りの言葉はパワーがある、

と思ったのでした。

 

 

体を浄化する方法は

いろいろとありますが、

心を浄化する方法は、

言葉の威力を借りると

いいかもしれません。

 

 

心がスッとするような

言葉を読んだり、聞いたり、

もしくは、実際に自分の言葉に

出してみること。

 

 

しかしね、正直言えば、

本当に本当に本当に、嫌いな人の

顔を思い浮かべて、

「私の嫌いな人が幸せでありますように」

というのは気持ち悪いかもしれません。

 

 

だから、CDを流すといいのです。

イライラも苦しさも音の力を借りて

CDを流すだけで、心のクリーニングが

できる、そんなCDです。

 

 

 

 

嫌いな人が幸せになるように、

心を込めずとも、嫌いな人のことで

イライラしている自分をなだめるために、

この慈悲の瞑想は役立ちます。

 

 

①最初にただ聴く、

②心込めずに言ってみる。

③言い続けてみる

 

 

続けているうちに、

何だか本当に心が軽くなり、

その人の幸せが、不思議ですが、

祈れるようにもなるのです。

 

 

3年半前にこちらのCDは

新装されたようです。

 

 

 

嫌いな人がいないことは

別に素晴らしいことではないです。

いてもいいですし、違う星の人間だ、

くらいに思っていてもいいです。

 

 

人は、違いがあるからこそ

自分の軸がある、ということです。

苦手な人や嫌いな人がいても

あたり前のことだからです。

 

 

慈悲の瞑想、

おすすめです。

 

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