『見たくない自分』というのを

若かりし頃は、見つけてしまった時、

それはそれはショックで、恥ずかしくて

罪悪感に満たされて、自分がいかにちっぽけで、

ダサい自分に絶望したりすることが

あるかもしれません。

 

 

人が成功するのを見ると

モヤモヤする。

つまり妬んでるんですよね?

 

 

誰かが自分にひどいことをした。

そんな相手を許せない。

許せない自分って、小さなやつだと

責めているのでしょうね?

 

 

親や姉妹が大嫌いで、

血のつながりがあるんだから

憎んじゃいけない、嫌っていてはダメ、

だけどそれができない自分は

ひどい人間だ、と思っているんですよね?

 

 

誰かに負けるのが嫌いで、

いつもがんばっていないと、

追い越されそうで、疲れているのに、

闘うことをやめられず、

相手の悪口さえ言ってしまう、

そんな自分は小さなやつだと

思っているのでしょうね?

 

 

子供が欲しいのに、

なかなかできず、周りの友達は

どんどん妊娠していく・・・

思ってはいけないことが

頭の中をよぎってしまう。

そんな自分なんてもう死んじゃえばいいのに。

こんなに醜い人は世の中にいないと、

自分のことが嫌いになっているんですよね?

 

 

大丈夫。あなただけではなくて、

周りのみんなも同じ状態だから。

ただ、そういうことを言葉に出さないので、

いい人に見えているだけで、

結構なブラックやらドロドロ

多くの人も持っていますから大丈夫。

気にしないで。あなただけでは

ないので。本当に。

 

 

なぜそれがわかるかというと、

私はコーチをやっているからです。

 

 

コーチは、クライアントが何を言っても

まず驚きませんしね、否定非難、判断、

ジャッジをしません。

いつもニュートラルです。

 

 

どんなことを言ったとしてもです。

 

 

もちろんクライアントが

「今から犯罪します。そのコーチングをお願いします」

とか言ったら国際コーチ連盟のコンピタンシー上、

そして倫理上、止めないといけませんが、

それ以外は人生自己責任。

 

 

主体的に生きることがコーチングの

基本倫理でもありますから、

そこにコーチの主観は入れません。

 

 

だから、みんな自分の内側を

私に吐露します。私が彼女たちを否定しないし、

守秘を守ると知っているからです。

 

 

だから、上記に書いたことなんて

序の口でして、もっともっと

人はブラックでありドロドロ

持ち合わせており、醜い自分もそして

それに支えられて、美しい部分も

ちゃんと持ち合わせているのです。

 

 

ねたみも当然ありますし、大丈夫。

相手を許せないなら、無理して

許す必要もないです。

 

 

誰かに許さない限り、幸せはやってこない

と言われたとしても、それでも

許せないなら、飽きるまで憎んだら

いいでしょう。

 

 

親、兄弟を憎んではダメ?

なんて誰が言ったのでしょうね?

親兄弟がわざと、あなたの成長するために

課題を与えてくれたことを考えると、

どうぞこれも飽きるほど憎んでください。

そして、それに飽きたら、やめたらいいのです。

 

 

負けず嫌いでいつも闘っている?

いいじゃないですか。ガンガン

闘ったらいいのです。もうダメ・・・

ってなったらいつか気づいて

疲れてやめたくなりますから。

 

 

ひどいことをよぎってしまう?

いいですよ。よぎるくらい。

世の中には、よぎるどころか

悪事を実行してしまう人も多々います。

よぎって罪悪感を抱くあなたは、

心美しき人です。大丈夫。大丈夫。

 

 

考えてみたら、精神世界では

善悪の判断がないので、どれも支え合っていて、

そしてどちらも知ろうとするのが魂の役割。

経験したいのですよ。どちらの感情も。

 

 

ポジティブだけがいいのでもなく、

明るいだけがいいのでもなく、

美しさだけがいいのでもなく、

元気だけがいいのでもなく・・・

 

 

ネガティブも、暗さも、醜さも、

落ち込みも不安も恐れもまた、

そこに「ある」というだけのこと。

 

 

それを否定しているうちは、

もっともっとそれらは大きくなっていくのです。

だからこそ、死ぬまでの間に、

それらもまた、ありなんだな、

ということと、ある時には

必要だったりすることもあるのです。

 

 

40、50にもなりますと、

むしろそういう新たなドロドロを

自分の中に見つけた時の

喜びったらありゃしない。

落ち込みなんてしません。

私の場合は、むしろそれらは

興味深いので、徹底的に観察材料にします。

 

 

私の場合は、もともと自分に期待しておらず、

若かりし頃に得た結論として、

自分はちっぽけなものである、ということ。

価値がないとかではなくて、

高い神視点で見たときに、ただの粒だな、と。

 

 

それどころか、自分のことは、

ブラック、ドロドロ、

闇やら隠やら持ち合わせている

ひどいやつだと最初から思っていますので、

受け入れている分、そこが暴れることもなく

それもまた大切な自分の一部として

それを見つけた時は、

 

 

おお!そこにまだいたのかー!

 

 

・・・となるわけですが、

一般の人々はそうはいかない、

というのをよく聞きますので、

今日はそれもまた自分の一部だよ、

という記事を書きたいと思いました。

 

 

そこを認められて、

それもまた自分の一部だとわかったとき、

また、自分の中での次なるステージがあり、

次の課題に取り組むのでしょうね。

私も次の課題に取り組み中。

 

 

人生いろいろありますもんね。

 

 

さて、今日は対馬ルリ子先生の講演会です。

20代でも多くなってきている女性の尿漏れ。

50代に至っては二人に一人の割合であるそうです。

恥ずかしいことではありません。

 

 

当日いらっしゃっても大丈夫です。

私も一参加者として講演会参加します。

残りの人生において、宝のような話が

聞くことができます。

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。