STUDIO KUMUさんにて撮影




この写真見て、これまでの中で、過去最大級の、

最も自分らしくない顔に写っている写真。

こんなに力が抜けた顔するのね…とちょっと驚きの写真。

こういう表情を撮れるのもさすがプロのカメラマンのなせる技。

この顔、ニュートラリッてる顔かもしれません(笑)

で、今日はワタナベのニュートラル思考について。





ニュートラルとは、「中立、中間」のことです。

今日は私の思うニュートラル思考ってどのよなうなことか

・・・について語ってみたいと思います。





一応、私自身の中には、

信念とか価値観とかいうものがありはしますが、

他人に関しての価値感信念はもちろん多種多様で、

また、何かの答えは、五万とある、とも思っています。

そこに良し悪しの判断はないのが私なりのニュートラル。

もちろん、好き嫌いなどの好みはあったとしても、です。





他人様が「私は、Aだと思います」と言えば、

私は「そうか、Aですね!了解!」と言いますし、

他人様が「Bです!絶対にBです!」といえば、

「そうだね、Bだね。Bやってみる?」です。





そして、人生捨ててるわけではないのですが、

正直、どうでもいいのです。





「どうでもいい」と言うと、

非常に冷たく聞こえるかもしれませんが、

興味がない、と言う意味ではなくて、

人がどの決定をしていても、どんな行動をしていても、

「どう決定してもいい」という「どうでもいい」。

全部、マル○だと思っているのです。






マル◯って、正しい、ってことじゃなくて、

正しいも間違いもないので、全部「経験」したいんだよね?

ってことで、そのことが良い結果でも、悪い結果でも、

すべて良い「経験」になるからマル○だと思っている、ということ。

そこにジャッジはないのと、それと、自分がその立場でない限り、

真実はわからないし、わかったところで、結局他人事でしょ?

と思っています。





今の生活、という視点で物事を判断しません。

人生という80年、90年というタイムラインで見る、

もしくは、そのタイムラインが魂レベルで言えば、

何本も無数にあって、その中の経験したかったことが

その今生のタイムライン上にある、というイメージです。





「ああ、みんな経験しているんだな」

という高い視点で物事を見ると、裏切りも、許しも、

間違いも、正しいもなくて、一言でまとめると、

それらは「ただの経験」なだけ。





こんなことを書くと、ワタナベは感情的になったりしないのか?

とか思われると思うのですが、感情的になって、

「あのハゲがぁーーーーー!」とか暴言を一人で吐きまくる

こともありますが、(世界中のハゲの皆様ごめんなさい。

ワタナベは相手がハゲでもなくても、

ハゲ呼ばわりすることがあります 笑)

それも私にとってはマル◯なのです。

感情的になる=バツではない、ということ。

全部マル◯。





だから、私には、他人に関して「許す」という概念がありません。

それは許さない、という意味ではないです。

「他の人の過ちを許しましょう」と言われていますが、

たとえ、私が害を被ったとしても、私は「許す」立場にはないです

ただ、そこに私の感情があるのみ。





怒りや悲しみや苦しみがあるだけで、

それを許すとか許さないとかありません。

私をこんなに苦しい目に合わせやがってー!とも思いません。

「苦しい」という感情を選択したのは自分だからです。





だから、人をずっと恨み続けることも、

許す許さないの関係にはありません。

動物のようにただそこに感情があるだけなのです。

ああ、ニュートラルって超ラク。





だから、批判コメントをもらうと、

ムカつくことはたまにありますが(最近はもう面白い)、

書いてもいいのです。私を批判してもいいのです。

ただ、私もそういう人を批判したければしてもいいのです。

自由なのです。





正直、なんでもありです。

感情もなんでもありです。

イライラする気持ちも、

ザワザワする気持ちも、

憎たらしいと思う気持ちも、

妬む気持ちも、嫉妬も。





それが経験であり、

そのことを経験するために

人は生きていると思っているから。






何かの物事に、いいとか悪いとかで線引きしてしまいますと、

苦しくなるのは自分です。何でもあり、何でもいい。





何でもいい、という表現は投げやりに聞こえますが、

実は、この「何でもいい」もしくは「どうでもいい」が

私にとってはしっくりくる言葉かもしれません。

しかし、決して投げやりではないのです。





私の言う「どうでもいい」は

「あなたはどうあってもいい」

 の意味なのです。






どうなってもいい、じゃないですよ?

どう在ってもいい、ということです。





過去にセッションで多くの方から同じことを言われました。

ある不倫をしているクライアントたちは、

そのことを打ち明ける時、ものすごくドキドキしていたようです。

「これを言うことで薫さんに嫌われたくない」と言うのです。

これまで何人いたかな~?たくさんいらっしゃいました。





ちょっとそれを言われた時に、

胸がキュンとして、「なんて可愛い!!!」と思いました。

・・・て、そういう話ではなかったです。

つまり、クライアントや友人がどんな決定をしていようが、

どんな状況にあろうが、私には「どうあってもいい」、

そう「あなたがどうあっても、私はあなたを愛している」

・・・ということ。





関係性が薄いと「愛している」までは思いませんが、

他人様の決定で周りはとやかく言う必要もないですし、

ましてやそれをジャッジしたり、ふれ回ったりもしません。





正義感はある意味大切なものかもしれませんが、

正しい、と正しくない、に線引きしてしまいますと、

どっちかが正しくて、どっちがか間違っている、

つまり、そこで隔たりができてしまい、

それが戦いになるわけですから。





かといって、それを自らの中に持っていて、

ダメということでもありません。

どうぞご自由に持っていて、自分はそれに従って

生きていけばいいだけです。

ただし、人に強要しないことです





・・・が、ニュートラリッてしまうと、

「強要したければしてもいいよね。どうでもいいよ」と

なってしまう。ただ自分が嫌なら「私には言わないで」

と言うだけです。





さあ、みなさん、ニュートラリッた生き方、楽ですよ。

周りはどうでもいいのです。

ですから、ゆるく心穏やかに、嫌な人も少ないですし、

気になりゃあしません。全ては自由。

バカな行動(バカに見える行動)をしている人を見ても、

「ああ、それをあなたは経験したいのね」と

言えることでしょう。人生の学びをその人から

奪うことをしなくてもいいのです。





他人をコントロールすることはできません。

そんな暇があったら、本の1ページでも読みましょう。

台所の整理を10分でもいいのでしましょう。

他人のことをどうこう言っている時間はもったいない。

時間は有限であり、人生はとっても短いのだから。





こういう記事内容って、難しいのか、理解し難いのか?

それともウンウン、わかるわかる!なのか、

私にはわかりませんが、今日の記事は、

ただ私が思っていることをつらつら書いただけのことです。

「ふーん、そんな風に思っているのね」

くらいに読んでいただけたらと思います。

ワタナベ薫を知っていただく、そんな記事かもしれません。

ではまた明日。