昨日は、実家に不用な物を片付けに夫と行ってきました。

父は76歳、母は75歳。物のない、貧しい時代に生まれていたためか、

なかなか物を自分で捨てられない世代なのかもしれません。

母は割と思い切りよく捨てるタチなのですが、なんせ

リウマチで体が動かないため、片付ける気力がない。

それで、私たちが手伝いに行ったわけです。




昔のものがいろいろと出てきました。

母は物に思い入れがないのですが、私のほうが

母の若かりし頃のモノ達に気持ちが出てきて、

ちょっとそれらを見ていたら、母は、「いらないいらない」と言って

ゴミ袋に捨てる・・・そんな作業をしていました。




父と夫は、大きな粗大ごみを分解したり、

トラックに積んだりして、2トンのトラック山盛り1台分の

粗大ゴミをまとめました。年を取れば取るほど、

物はどんどん少なくしていかないとね。




引き出しを整理していた時に、一通の手紙が出てきました。

今から6年前に、父の親友から、父へ送られた手紙でした。






その親友のことを、私は玉野のおんちゃん、と呼んでいました。

おんちゃんとは、宮城の方言でおじちゃん、おじさんのこと。

親戚の人も近所の人も、こちらではおんちゃんと呼びます。




玉野のおんちゃんは、終戦のチョイ前くらいのときに、

空襲を避けるため、都会から田舎の父の家の近所に、疎開してきたのです。

その頃は、本当に食べるものがなかったそうです。




玉野のおんちゃんがうちに遊びに来た時は、

私に、いつも同じ昔話をしだすのでした。

子供の頃、私の父に助けられた・・・

父に生かされたと・・・




食べ物もない時代で、玉野のおんちゃんは妹と二人で

田舎に疎開させられ、叔母さんの家で肩身の狭い思いをしながら、

みじめな生活をしていたそうです。食べ物もないので、

いつもお腹がすいた状態。そんな時に、うちの父と出会い、

父は、いつも玉野のおんちゃんにおにぎりをあげていたそうです。

父の祖母も玉野のおんちゃんの分まで、おにぎりや

お餅を持たせてくれたそうです。




また、大人になってから、玉野のおんちゃんはうちに遊びに来るたびに、

昔のつらかった時の話を私にするのでした。そして、最後は必ず、

「孝男(私の父の名)に助けられた・・・孝男のおかげで今がある」

そのようなことを私にいつも言っていました。




父と母はお見合い結婚ではありますが、二人は同じ地元。

小学生の時から、父と玉野のおんちゃんと母は友達だったそうです。

今の母の姿からは、まったくもって想像もつかないのですが、

中学、高校の時は美人だったそうで、玉野のおんちゃんは、

母のことを、子どもの頃から、ずっとずっと好きだったそうです。




しかし、大人になってから、自分の親友(私の父)と母が

お見合いをしたことを知り、かなりショックを受けたそうですが、

玉野のおんちゃんはうちの父に助けられた恩があるからと言って、

「さっちん(うちの母)は孝男に譲る!」

そう言って、涙を飲んで、母をあきらめたそうです。

そんな話を昔は何度も何度も聞かされていました。

うちに泊りがけで遊びに来るたびに、そうやって3人で飲み明かしていました。




ブログでは以前も書きました通り、私の父は粗暴で、浮気はするわ、

暴力も振るうわ、すっごい利己的で、家族にとってはひどい存在でしたが

外面(そとづら)はとてもよく、みんなに好かれていた人です。

そして、この玉野のおんちゃんの話を聞くたびに、

父にもいいところがあるのだな、と思い起こさせられたのでした。




今から7年ほど前に、玉野のおんちゃんは、ガンになりました。

入院して、その病院から、父に便箋十数枚に渡り、

昔の体験と、父への感謝の言葉が書かれていました。

涙なしには読むことができず、それはまるで

「火垂るの墓」の生の体験がそこにはつづられていました。




そして、昨日の実家での片付けの時に、玉野のおんちゃんが

その手紙を送った後に、再びうちの父に送った一通の手紙を見つけました。

何だかものすごく考えさせられた手紙でしたので、載せますね。




$美人になる方法





三浦も夏の海の色に変化した。久し振りに城ケ島も夏らしくなっていた。
先日は、長々の手紙、つらい思い出を読んだことだと思う。相すまん。
まだ手も思うように動かぬがまあまあだろう。


又、見舞いまで頂き、誠に申し訳ない。心より御礼申し上げます。


先日何とか退院してきた。歩行がなかなかできないので、
リハビリに三か月はかかるとのことだが、
出来る限り頑張ってみるつもりだ。
一歩一歩だがこれも人生の最後の歩みかな。


病室でお前の手紙を読んで、一人大泣きしてしまった。
涙が止まらなかったよ。
俺は本当に心からの友を持った幸せ者だと感じた。


俺もお前も本当に体を張った人生だよ。
俺は、金持ちにはなれなかったが、人には恵まれた。
これが自分の宝となった。
何物にも代えがたい財産かもしれない。


孝男・・・もう、頑張って働かなくてもいいんだよ。俺たちは!!
明日の食さえあれば幸せなんだよ。
生きようぜ。まだまだ死んでたまるか!


孝男とさっちんの顔が見たいよ。
必ず行く!そして、お前と抱きしめあいたいよ。


とにかく、体には十分気を付けてくれ。若くはない身体だ。
大切につかわなくてはもたないのかもなぁ。


「今一度」「今一度」必ず会いに行く!!
元気でいろよ!自分の足で必ず歩いて、会いに行く!
リハビリ頑張る。


さっちんも身体には十分気を付けてください。
古漬けで朝飯食べたい・・・必ず会いに行く!
だんだん字も乱れてきたのでとめるから。お礼まで





・・・この後どれくらいあとかはわかりませんが、

玉野のおんちゃんは亡くなった、と聞きました。

最後の力を振り絞って書いた手紙であり、しかし、また会いに行く!

という希望を胸に、リハビリを頑張ろうと決意していたのがよくわかります。




物のない時代、食べ物のない時代に生まれ、

今は豊かに食べられること、玉野のおんちゃんは

手紙の中でそれに触れ、「明日の食さえあれば、幸せなんだよ」と。




餓死寸前の生活をしてきた人にとっては、この現代で

得られていることがどれだけ幸せなことか、

彼は再三私にも教えてくれました。




そして、金持ちにはなれなかったが、

人に恵まれたこと、これが財産である、とも。

どんなにお金があってもそのお金で共に喜ぶ相手がいなければ、

それは何にもならないのかもしれません。




結局、玉野のおんちゃんの「必ず会いに行く!」は

果たされることはありませんでしたが、それでも、

彼は笑顔のうちに天国に逝ったことはよくわかります。

いつもの口癖は、「孝男に出会えてよかった・・・」との言葉。




大嫌いなそんな父であっても、これほどまでに恩を感じ、

大切にしてくれた親友がいることを考えると、そんな父にも

ドラマがあり、ストーリーがあり、青春の日々があったのだな、

とちょっと胸が変な気持ちになるのでした。



昔の物たちというのは、昔のエネルギーが詰まっていますね。

何だか、それらに触れると、勝手なフィルターを通して見るのですが、

昨日は、せつなくてせつなくて、しょうがなかった一日でした。

たぶん、それは大好きな玉野のおんちゃんを思い出し、

この手紙を読んで泣けたからだと思いますが。




ということで、独り言のような記事に最後までお付き合いいただいた皆様、

ありがとうございました。何かここから、皆様にとっても、小さな宝石が

拾えることを願っております。明日の食さえあれば、幸せなんですよね。

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