こんにちは。ワタナベです。

今日は当社創立一年記念でした!

読者様からおめでとうメールが来て、初めてわかりました(^∀^;)

一年か・・・早いわ~。これからもがんばりますので、みなさま

どうぞヨロシクお願いいたします。お祝いは応援クリックで(・∀・)





こちらは、昨日雪が降りました^^

今年最後の雪じゃないといいですが・・・

雪好きの私としては、雪が振っているとテンションも上がるんですよねん。




しかし、ウィンタースポーツ、ほんの2、3年しないだけで、

行こう!という気持ちが薄れていくのはビックリ・・・

29歳の時にスキーをはじめたのですが、スキー飽きちゃった(^∀^;)

結構飽きっぽいのがこういうところに出ています。




今頭の中ではスポーツよりも、バイクの免許がとりたくって

うずうずしています。今年こそはバイクの免許取得!

9月以降は、実はセミナーなどの仕事を入れていないので、

もしかしたら、いけるかも(^∀^)♪




2年前から言い続けていますが、仕事との兼ね合いで優先順位は

それよりは下ではあるのですが、全然諦めてはいないんですよね。

免許を取りたいモチベーションは2年前から常に一定。なぜか?

その方法はこの記事の一番下に載せます。で、今日の記事いきます。





さて、私はブログでは、常々、物事には善悪の基準がない、ということについて、

自分の思想をつらつらと書き続けているのですが(極端に取らないでね^^;)

先週参加したドクター苫米地のセミナーでで学んだディベート術で学んだことで、

より一層それを強く思うことになりました。




例えばなんだけど、世の中”100%”とか” ”絶対”ということは

突き詰めると何もないわけで、99%真実であっても、1%が偽りが入っていたら、

それは、真実か?と問われると100%真実じゃないんですよね。




少数派意見は押しやられてはいますが、でも突き詰めると

1%の偽りの部分だって本当は調べる必要がある部分

さらに言えば、何かの裁判の判決だって、議論して

意見がまとまらないと多数決なわけですよ。




なので、10人中、6人が有罪と判決し、4人が無罪を主張しても、

マスコミには、「有罪!」と掲げられるわけで、

その人は悪者になってしまう。4人の無罪を主張した人の意見も

本当はよーーーく調べなければいけないと、私は思うのです。




で、同じように私たちの世の中にあることってすべて虚像なんですよね。

全部、自分たちの信じたいように世の中が成り立っている。

メディアに騙され、真実が曲げられ、そして、

目に見える部分だけで判断しジャッジする。




私は、人の好みはあるものの、人をジャッジするのは好きではありません。

ま、人間関係において「そりゃねーだろー!」とか思ったとしても、

それを誰彼に主張したり、押し付けたりは好みません。




人は、どうしても表面的な部分で人を判断しがちですし、

「メディアで語られていること=正しいこと、信じていいこと」、

と思いがちですけれども、それもまた危険なこと。




自分でどう思おうと自由ではあるのですが、

表面化していることだけでジャッジするのは、

どうかな?と思ってしまいます。



1.JPG



それは、ごくごく身近な人間関係においても同じ。




極端な例えになってしまうかもしれませんが、盗みは法を犯していて、

それをした人は、悪人なわけですよ。しかし、盗みの背後にあるものは?

そんなことまで本当は考えたほうがいいのでは?と思ったりして。




戦時中は、生きるために他の人の畑から盗んで命をつなぎました。

子供がおなかをすかせて、それを満たしてあげたくて、

自分も物ではないものを盗んで子に与えました。




そう考えると、盗みは悪だと言い切れないと私は思うのです。




ま、極端な例えではありますが、私たちはいかに表面的なことで、

人を判断し、判断や好みならまだしも、ジャッジしたりする人も

とても多いです。「あの人は間違っている」と。




聖書の言葉の中でこんなのがあります。




「 他の人を裁いてはいけません。

そうすればあなた方も裁かれません。

人を裁くときにあなた方が使う基準が、

あなた方が裁かれる基準なのです。」





簡単に言いますと、あなたがいつも人を裁いていると、

人も同じように扱われますよ。だから人を裁いてはいけませんよー、ってことです。




ただ、人の行動によって不快になったり、頭にきたりすることもありますよね。

それは事実であってしょうがないです。しかし、忙しい生活をしていますと、

自分がその感情を選んでいる、ということを忘れがち。




「あの人が私を不快にしている」

「あの人の言動が私を苛立たせる」

「あの人の行動でみんながイライラしている」




「あの人、あの人、あの人・・・」という風に自分のイライラを

他の人のせいにすること「他責」と言います。




「あの人は人を不快にさせる行動をしているな・・・でも

不快に思っている(感情を選んでいる)のは、自分だな」、と

人生の責任をすべて自分に向けること「自責」と言います。




先日、福岡のコーチングのトレーニングでは、この「自責」と「他責」

みっちり学んできました。私たち誰にでもあるものではあるんですけどね。

この「他責」の傾向は・・・




もちろん、こんなことを書いている私が怒らないか?

不快にならないのか?と言ったらもちろん怒るし、不快にもなります。

でも、その人が悪いのではなくて、自分でその感情を選んでいる、

ということを認識の元に、その感情をも味わうことがあります。

否定せず、味わう感覚、すっごい学びがあります。




と、ちょっと難しい記事になりましたが、今日のタイトル通り、

私は他の人に対しては寛容でありたい。そして、表に見える部分だけを

信じるのは本当に危険なこと
で、そして、そのちょっとの情報で

人を正しいとか、間違っているとかをジャッジするのは危険かもしれませんよー、

というのが今日の要点です。





ま、私の思想的な部分ではありますが、これもまた、

いろんな考えがあってもいい部分なのかな?そして、

人の価値観の違いを受け入れる、そんな寛容さも生きていく上では

必要だと最近特に思うのでした。





さて、バイクの免許を諦めきれない私は、まだまだ免許取る気、

満々でございます。この高いモチベーションは、以前バイク屋さんで

撮った1枚の写真が私を支えています。



1 バイク.jpg



今年44歳の私、取れるか!自動二輪!

親はもちろん反対しています。「転んだらどーすんの!」と(^∀^;)

私は、「死ぬときゃあ、死ぬんだよ」と言うと、「そっか・・・」と

割と軽く受け止めてもらいました。




昨年父が車を大破して、絶対運転手死んでるだろう?の位

車がめちゃめちゃなっても、生きることを許されている人は

生きているんですよね。なので、死ぬときは死ぬ、生きる時は生きる。




だったら、自分の人生はしたいことをして、謳歌しようじゃないか!

ということで、今回のセミナー内容の一部は、

自分の人生を切り開く!というのも扱います。お楽しみに!




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