今日君は何をした?

多くの人は、「何も」や「いつも通り」と答えるだろう。
妥当な答えだと思う。

その質問はありふれているが、僕らにとって酷な質問だ。

多くの人は文字通り「何も」していないのだから。


その反論は聞き飽きたので、言い直すと。

僕らの多くは自発的に行動していない。


じゃあ、今日した「何か」が何の影響も受けずに能動的に実施し得たかい?

明日、突然自由な時間を与えられたら「何か」出来るかい?


僕らは色を持って生まれ、沢山の色を見て育った。
でも、気がつけば自分の色を忘れ、好ましい色を纏う。

自分の色を使って自由に描けばいいのに、
ありふれた色を使い、与えられた塗り絵をただひたすら上手になぞっている。

それを恥じる必要はない。
それを「自発的に」選んだと言うのなら、
もっと楽しそうにしたらどうだい。
我々は搾取する生き物だ。奪い合いを繰り返し、今を生きている。

ただ平和に生きていると思っている人達も無意識に他人から搾取を繰り返している。

平和自体がどこか不自然な現象に思えてならない。

不安定な土壌を省みず、両手一杯に奪ったものを抱える我々はいつか転び、持っていたものを失うだろう。

打算なく分け合ったり、分け与えたりすることのない欲深い我々はいつしか搾取される側にいるかもしれない。

その「いつか」も、我々の気づかないうちに始まっているかもしれない。

明日も椅子があると思わない方がいい。
答えがない問題を知っているか?

その問題は我々の起源に触れる問題であり、多分考えてはいけない問題でもある。
しかし、色々考えていると、ふと、その問題に出くわすことがある。

なぜなら、多くの疑問や学問の始まりと終わりにその問題が存在し、方法は違えど多くの考え方はその問題を解くためにあるのだから。

答えに対し、解法が収束する様子がない。

回避に近い現象により霧散する疑問。

考えることを恐れている自分と意図的な何かに憤りを感じている自分。

今はほとんど思い出せなくなっているし、明日には完全に忘れているのだろう。